バキエフの首都逃走後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:20 UTC 版)
「2010年キルギス騒乱」の記事における「バキエフの首都逃走後」の解説
4月8日に首都ビシュケクから逃走したバキエフは当初カザフスタンに亡命するとみられたが、キルギス南部のジャララバードへと入って反撃の機をうかがった。ジャララバード州、オシ州、バトケン州の3州は政変の当初バキエフ派の影響力下にあったが、少数民族のウズベク人などの反バキエフ派が勢いづき、やがてバキエフ派の政治家たちもバキエフを見放し、バキエフの持つ麻薬利権の分配に走りだした。 ロシアやアメリカ合衆国もバキエフを見放す中、4月15日、オシで開かれるはずであったバキエフ派集会が失敗に終わったことでバキエフは国外逃亡を決め、ジャララバードからカザフスタンの軍用機で一旦カザフスタンへと逃れて現地で大統領辞任を表明し、20日にベラルーシに亡命した。 だがバキエフの一族はなお復権をあきらめず、6月に予定された国民投票を実力で阻止するべく、5月にキルギス南部で暴動を起こした。これに対しオトゥンバエヴァは5月19日に自身の臨時大統領就任を発表し、南部の暴動の鎮圧にひとまず成功した。しかしこの中でキルギス人と、政治的に劣位におかれてきたウズベク人との間の民族対立が先鋭化し、6月の民族衝突へとつながる。
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