6月の民族衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:20 UTC 版)
「2010年キルギス騒乱」の記事における「6月の民族衝突」の解説
「en:2010_South_Kyrgyzstan_ethnic_clashes」も参照 5月ごろ、一本の音声動画がYoutubeにアップされた。その内容はバキエフの二男マクシムと弟ジャヌィベクと思われる人物が、ならず者を集めて軍警察の制服を着せ、暴動を起こさせる算段について相談しているものだった。 6月10日、オシ市内のカジノで起きたキルギス人とウズベク人の衝突を機に、警察も抑えられない程の暴動がオシ市内で発生した。11日になると市内のウズベク人居住区がキルギス人暴徒に襲われ、ウズベク人側を中心に性別年齢を問わず大きな被害が出た。12日になるとオシに隣接するウズベキスタンからウズベキスタン軍がやってくるとの噂が流れ(実際には来なかった)、キルギス人暴徒は逃走してオシの暴動は沈静化に向かった。一方でジャララバードでも民族衝突が発生したが、14日中にはキルギス南部の民族衝突はほぼ終息した。 後にキルギス暫定政府は国内調査委員会と外国の国際調査委員会に、暴動について調査させたが、両者の結論は大きく食い違った。国内調査委員会は衝突の責任をウズベク人側に帰した。一方で国際調査委員会側はオシ現地の官憲がキルギス人側の暴徒に深く関与し、また暴動の際にウズベク人を違法に虐待したとしている。両者の溝は埋まらないまま、2011年1月に政府は調査を打ち切った。
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