6月の戦況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 08:44 UTC 版)
ここまでの経過で晴元軍は摂津の城を転々としながら戦場へ接近したが、単独で三好軍に挑めないため、三好軍を牽制しながら六角軍の来援を待つ姿勢を取っていた。一方の三好軍は、十七箇所近辺を平定しつつ榎並城を包囲していたが、城方が用意を整えていたため5月の時点でも落とせず、戦闘は長期化していった。 6月になると戦況に変化が起こった。6月11日に政長が三宅城を出て江口城に入ったのである。江口城は北中島の東北端に位置し、中嶋城と柴島城の北東及び榎並城の北、三宅城の南にも位置する重要拠点で、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地だった。政長の出兵目的は、この江口城で中嶋城と榎並城の中間に立ち三好軍の妨害を図り、合わせて三宅城と榎並城の通路を確保して近江からの六角定頼の援軍を待ち、長慶と相対することだった。 だが、江口城には弱点があった。北・東・南は川に囲まれた要害であるが、水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点もあったのである。長慶はすかさず江口城を包囲してその糧道を断ち、かつ江口城と三宅城で支援する細川軍との連絡を遮断するため、弟の安宅冬康と十河一存らの別隊を江口城北側に派遣、神崎川の支流別府川河畔の別府村(摂津市)に布陣させ、三宅城と江口城の連絡と退路を遮断して江口城を孤立させた。
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