江口の戦い
江口の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 05:26 UTC 版)
長慶・政長陣営は互いに打つ手が無く膠着状態のまま天文18年を迎えたが、2月になり長慶が出陣して榎並城を包囲、政長も丹波を迂回して摂津へ向かい榎並城へ接近、3月1日に榎並城付近の柴島城を落とされ伊丹城へ引き上げたが、4月に晴元が摂津に出向くと軍を立て直し、5月に三宅城を占拠して晴元を迎え入れ、6月11日に三宅城から南下、柴島城と榎並城付近の江口城へ入城した。しかし、晴元の戦略は独力で長慶に立ち向かえないため六角定頼・義賢父子の援軍を待つというものだったが、政長は政勝の窮地に待ちきれず前線の江口城へ進み自ら孤立してしまった。 長慶はこの機を逃さず江口城周辺も占拠して三宅城との通路を遮断、政長は三好軍に包囲され、24日に援軍の六角軍が到着する前に長慶に江口城を攻め込まれ討死した(江口の戦い)。政勝は榎並城を放棄して行方が分からなくなり、晴元も長慶の追撃を恐れ京都へ逃亡した。これによって幕政を担ってきた細川政権は崩壊し消滅することになる。 茶人としても著名で、天下三肩衝の1つ新田肩衝を所有した。後に今川義元や織田信長が所持した名刀左文字は、元々は政長(宗三)の所有物だったので宗三左文字とも呼ばれる。
※この「江口の戦い」の解説は、「三好政長」の解説の一部です。
「江口の戦い」を含む「三好政長」の記事については、「三好政長」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 江口の戦いのページへのリンク