三好氏の内部確執とは? わかりやすく解説

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三好氏の内部確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 08:44 UTC 版)

江口の戦い」の記事における「三好氏の内部確執」の解説

三好長慶細川晴元政権下で太平寺の戦い舎利寺の戦いなど戦功重ね三好氏総帥としての地位固めてゆくにつれて晴元信頼される一族三好政長存在は、長慶にとって無視できなくなってきた。天文17年1548年5月6日摂津国池田信正(政長の娘婿)が晴元屋敷切腹させられ一件も政長の讒言疑われ遺児で政長の外孫でもある長正が後を継いだことは晴元介入対する他の摂津国人の反発招いた天文17年8月12日長慶晴元近習田井源介、平井丹後守など)に対して三好政長・政勝父子誅殺願い出た一族統率を乱す不届者を除くというのが表向き理由だった。しかし、この長慶申し出晴元には聞き入れられず、前日11日信正居城だった池田城内紛起こり家臣団が政長派を城から追放して長慶合力誓ったため事態一触即発となった。 そこで長慶は、晴元敵対する細川氏綱陣営転属岳父である河内守護代・遊佐長教らに出兵求めつつ、自身軍事行動開始した。これに対して近江六角定頼晴元岳父)はこの行動を「謀反」とする一方で晴元和泉守細川元常岸和田兵部大輔紀伊根来衆らに出兵求めた長慶には氏綱・長教を中心に和泉松浦興信丹波守護代内藤国貞大和筒井順昭池田長正始め摂津国人の多く味方付いた晴元・政長には茨木長隆伊丹親興など少数摂津国人と六角定頼周辺大名与同した。

※この「三好氏の内部確執」の解説は、「江口の戦い」の解説の一部です。
「三好氏の内部確執」を含む「江口の戦い」の記事については、「江口の戦い」の概要を参照ください。

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