三好氏への厚遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)
義輝は三好長慶と和睦して帰京すると、三好一門を厚遇し、彼らを厚遇した。主だった者たちに対しては、栄典を次々に与えた。 まず、長慶は幕府の御相伴衆に加えられ、桐紋の使用を許されたほか、さらに修理大夫への任官を推挙された。また、嫡男・孫次郎が義輝から「義」の偏諱を拝領して、義長(後に義興に改名)と名乗り、同様に御相伴衆に加えられた。そのほか、三好実休や松永久秀なども御供衆に加えられるなど、一門・宿将も破格の待遇を受けた。 三好一門は義輝から将軍近侍の直臣や有力大名に授与される上位の栄典を得て、社会的な地位を大いに上昇させた。他方、それを知った諸国の大名らは羨望の眼差しを向けると同時に、分不相応だと批判もした。彼らもまた、他国の大名らと争う過程において、社会的地位を上昇させるために高い栄典を望んでいた。特に、「義」の一字拝に関しては公家からも批判があり、吉田兼右は「末世の故なり」(『兼右卿記』)と嘆いている。とはいえ、三好氏は将軍家との関係を旧主・細川氏よりも深め、畿内・四国を勢力圏とし、長慶のもとで最盛期を迎えた。 その一方、長慶をはじめ三好氏は義輝の臣下として、幕府機構に組み込まれることとなった。義輝が朽木にいた5年間は、三好氏が畿内に君臨し、この期間においては義輝に臣従しておらず、対等な立場にあったとも考えられる。だが、栄典が三好氏に授与されると同時に、三好氏は義輝を主君として認め、臣下の礼を取らざるをえなくなった。例えば、御供衆は単なる称号ではなく、将軍の外出の際にはその行列に付き従って「御供」する必要があり、三好氏がその臣下であるということ目に見える形で内外に明確化された。 無論、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や、長年対立してきた義輝との和解が難しいことは理解していた。そのため、永禄3年1月に義長が三好氏代々の官途であった筑前守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津の芥川山城を義興に譲って、河内の飯盛山城に移っている。長慶自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義興と義輝の間で新たな関係を構築することで、関係の安定化を図ったとみられている。
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