三好氏内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)
永禄7年(1564年)三好家当主・長慶が死去して若き三好義継が跡を継ぐと、宗厳が仕える松永久秀と三好家の重臣・三好三人衆等との間に対立が生じ、やがて三好家中を二分した争いになる。三人衆は当主・義継を擁立し、宗厳の前の主君である筒井順慶をはじめとする大和の国人の多くが三人衆と結ぶなど久秀は孤立するが、宗厳は久秀方に留まった。久秀は劣勢を強いられるが、永禄10年(1567年)に三好家当主・三好義継が三人衆への不満から出奔し、久秀に味方したことでかろうじて復活を遂げ、戦況は膠着する。 この状況を打開するため、久秀が前将軍足利義輝の弟・足利義昭と同盟を結び、義昭とその擁立者織田信長の上洛を図ると、宗厳も久秀に従って義昭上洛のために尽力する。同年8月21日には信長から書状により上洛の下準備に関する指示を受け、続く28日には信長の重臣佐久間信盛から、上洛が延引していることについて弁明の書状を受けている。 これらの書状で見られる通り、この頃の宗厳は外部の信長やその重臣からも認知される存在となり、直接書状を受け取っている。宗厳はこのほか久秀の主君である三好義継からも直接感状を得ており、この時期松永氏の弱体化によって相対的に存在感を増し、与力として半ば独立する立場となっていたという見方もある。 同年12月、上洛をひかえた信長から大和や山城南部の国人達に宛てて、松永久秀とその子・久通への協力を求める書状が送られる。この書状は同内容のものが複数現存するが、柳生家には宗厳に宛てられたものの他に、宛名が「興福寺在陣衆」となっているものも保管されている。このことから、この頃の宗厳は久秀の軍事的基盤の一人として、興福寺に陣取る軍勢を率いる立場にあったと見られる。
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