三好氏の重臣としてとは? わかりやすく解説

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三好氏の重臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:11 UTC 版)

岩成友通」の記事における「三好氏の重臣として」の解説

史料における初見天文19年1550年)であり、北野社大工職相論において、照会の役を務めていることが確認される天文20年1551年11月、堺で開かれた天王寺屋津田宗達津田宗及の父)の茶会出席している。その後三好長慶の下で奉行衆として仕えた永禄元年1558年)、将軍山城占拠参戦北白川の戦い)しており、この従軍軍事行動における友通の初見とされる永禄5年1562年)、六角義賢が京に侵入した時は、室町幕府13代将軍・足義輝警護行った永禄7年1564年)、長慶死去すると、三好三人衆1人(他の2人三好長逸三好宗渭)として、甥の三好義継後見役務めた永禄8年1565年)、足利義輝殺害永禄の変)をしたのを初め、他の三人衆行動を共にし、松永久秀畠山高政としばしば戦った永禄9年1566年)、土豪中沢満房、革嶋一宣らの立て籠もった山城国勝竜寺城攻め落とすと、友通は敵対した土豪達を厳しく追及、革嶋一族始め多く土豪追い出し手に入れた土地多く新し領主与えた同時に勝竜寺城居城とし、山城西部の西岡支配した。これは、勝竜寺城拠点西岡地区新たな支配確立させようとする、斬新な手法であると評価されるまた、勝竜寺城も、戦の際に土豪立て籠もる施設程度であったものが、友通が入城整備して拠点とすることで、土豪まとめ上げる政権拠点として生まれ変わった。友通はそうした点から、勝竜寺城の「最初城主」とも評される永禄10年1567年)、1万軍勢率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲受けて敗北東大寺大仏殿の戦い)。 永禄11年1568年)、織田信長上洛してくると、三好長逸三好宗渭篠原長房らと連携しそれまで敵対していた六角義賢手を組んで強く抵抗したが、守城の勝竜寺城攻撃され退去した(勝竜寺城の戦い)。しかしこの際、他の畿内の城が抵抗らしい抵抗もせずに降伏してゆく中、友通の籠る勝竜寺城池田勝正籠る摂津国池田城だけは強硬に抵抗した。これは、友通による支配一定の奏功をし、土豪達が彼の下に結束していた証とされる敗退推移について、『多聞院日記』『言継卿記によれば永禄11年9月27日に友通は信長抵抗して勝竜寺城籠城したとあるが、9月29日には落城している。言継卿記の翌永禄12年1569年)の1月8日記述によれば勝竜寺城には細川藤孝入城している。友通が勝竜寺城であったこの時期には、光源院から勝竜寺城主である友通に礼物送られていたことが「光源院文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月未詳となっている。永禄12年1月信長庇護にあった義輝の弟・足利義昭宿所襲撃しているが撃退された(本圀寺の変)。

※この「三好氏の重臣として」の解説は、「岩成友通」の解説の一部です。
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