三好氏、浅井氏との争いとは? わかりやすく解説

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三好氏、浅井氏との争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:01 UTC 版)

六角義賢」の記事における「三好氏、浅井氏との争い」の解説

父の死後13代将軍・足義輝細川晴元助けて三好長慶と戦うが、優勢であった三好氏との勢力差が逆転し敗戦続けた。しかし永禄元年1558年)、北白川の戦いの後に義輝長慶和睦仲介することで義輝京都戻し面目保っている。これを契機に、対立していた北近江浅井久政六角に対して侵攻開始する撃退し浅井氏従属下に置いた従属関係強調するため、久政の嫡男偏諱与えて賢政と名乗らせたり(後に長政改名)、家臣平井定武の娘を娶わせたりした(後に離婚)。 永禄3年1560年)、浅井長政六角氏に対して反抗開始義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率い浅井軍前に大敗喫した野良田の戦い)。 この敗戦により、それまで敵視していたと言われる斎藤義龍とも同盟関係を結び、対浅井氏の戦を繰り広げていくが、戦況芳しくはなかった。斎藤義龍との同盟は、家督譲られ嫡男義治主導したものと思われる。承禎は姉妹美濃国守護土岐頼芸嫁いでいるため、美濃簒奪した出自怪し美濃斎藤氏との同盟反対する旨の書状が見つかっている。承禎は室町時代以来伝統的な同盟相手である土岐氏美濃復帰志向する保守的な性格を示すと共に斎藤氏織田氏朝倉氏敵対関係にあったことから、その対立六角氏巻き込まれることを危惧する現実的判断があったと考えられる。なお、前述浅井長政離反に関しては、長政朝倉義景従属下に入ったことでその支援背景起こしたもので、これによって六角朝倉両家の関係が悪化してたとする指摘もある。

※この「三好氏、浅井氏との争い」の解説は、「六角義賢」の解説の一部です。
「三好氏、浅井氏との争い」を含む「六角義賢」の記事については、「六角義賢」の概要を参照ください。

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