父の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:28 UTC 版)
しかし、永禄8年(1565年)に晴政が病没した為、晴政の意向で宗家と相対していた政秀は対立の理由を失ったので義祐と和解が成立するが、その後に政秀は利神城を攻め取るなど軍事行動によって勢力を伸長し、また永禄10年(1567年)には独自に当時流浪の身であった足利義昭(義輝の弟)と接触し関係を持つなどの動きを見せるようになる。また、一方で東播磨の有力者である別所安治も独自に動いていたが、義祐の治める赤松家にはこうした動きを御する力は無かった。
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