父の汚名をそそぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:12 UTC 版)
陸遜の次男として生まれる。長兄に陸延がいたが早世したという。 赤烏8年(245年)、陸抗が20歳であったとき、父の陸遜が死去する。陸抗は後を継いで建武校尉となり、父の配下の兵士5000人を預かって武昌に駐屯した。 陸抗は父を埋葬するため、その棺を奉じて故郷に帰る途中、建業の宮殿に立ち寄って官職の授与の感謝の念を述べた。当時の孫権は、陸遜に対する疑念を解いておらず、拝謁に来た陸抗に対して使者を送り、かつて楊竺が弾劾してきた、陸遜の20条にも亘る疑惑について詰問した。陸抗は、その使者と他の賓客を交えずに一対一で面会したが、臆する事なく自分の言葉で一つ一つ筋道立てて申し開きをした。そのため、孫権の疑惑もようやく解けた。 赤烏9年(246年)、陸抗は立節中郎将に昇進した。諸葛恪と任地を交替し、柴桑に駐屯した。この時、陸抗は元の陣地を整備して諸葛恪に引き渡したが、諸葛恪は壊れた部分もそのままの状態で元の陣地を陸抗に引き渡したため、諸葛恪は新しい駐屯地が整備されているのを見て恥じ入ったという。 太元元年(251年)、陸抗が療養のため一時建業に帰還し、治癒して任地に戻る事になった。孫権は泣いて別れを惜しみ「先だって、私は讒言を信じそなたの父君の信義を裏切ってしまった。そなたに対しても非常に申し訳なく思っている。どうか送りつけた詰問の書簡を全て焼き捨て、人の目に触れぬようにして欲しい」と語ったという。 孫権が崩御し、孫亮の代となった建興元年(252年)、奮威将軍に任命された。
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