父の転勤――東京~鳥羽
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「梶井基次郎」の記事における「父の転勤――東京~鳥羽」の解説
1909年(明治42年)12月上旬、父の安田商事合名会社東京本店(のち安田商事)への転勤に伴い、一家は祖父・秀吉(大阪残留を希望)を残して上京。品川の旅館・若木屋に数日滞在した後、東京市芝区二本榎西町3番地(現・港区高輪2丁目6番地)の狭い借家に転居した。泉岳寺を見下ろす高台の家で、電灯もなくランプで生活していた。 1910年(明治43年)1月、基次郎は兄・謙一と共に、芝白金(現・港区白金台)の私立頌栄尋常小学校へ転入し、紺絣に袴を穿き下駄で通学した。この学校はプロテスタント系の頌栄女学校の付属校で、ハイカラな気風と西欧的な自由主義教育と英語教育がなされ、巖谷小波がアンデルセンなどのお伽話の講話を行っていた。兄弟は当初「大阪っぺ」とからかわれたが、兄が紙ヒコーキを学校に広め、基次郎も兄と一緒に徐々に東京山の手の校風に馴染んでいった。 父・宗太郎は左遷されたという憤懣もあって酒びたりの日々であったが、やがて基次郎の異母弟・網干順三の親子らも上京させ、別宅で養い始めた。そのため梶井家の家計は質屋に通うほど窮迫し、母・ヒサは内職に励み、高等小学校に通う姉・冨士までレース編みの内職で家計を支えた。祖母・スヱの肺結核も進行していた。この年の9月30日に末弟・良吉が生まれた。 1911年(明治44年)5月、再び父が転勤となり、一家は三重県志摩郡鳥羽町1726番地(現・鳥羽市鳥羽3丁目7番11)の広い社宅に転居した。社宅は漁船が行来する入江近くの高台にあり、日和山が見えた。安田系の鳥羽造船所(現・シンフォニア テクノロジー)の営業部長となった宗太郎は羽振りがよくなり、一家は東京から来た重役の家族として地域の人から敬われた。 漁師の子がみな草履の中、革靴を履いている基次郎は重役の坊ちゃんと呼ばれ、東京の頃と扱いが一変した。基次郎は姉と共に社宅の左隣の鳥羽尋常高等小学校に転入(姉は同校高等科)。兄・謙一は三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)に入学して、宇治山田市(現・伊勢市)の寄宿舎生活となった。 基次郎は夏休みで帰省した兄や友だちと海で泳いでサザエを獲ったり、裏山の「おしゃぐりさん」(大山祇神社)や城跡を駆けめぐったりした。自然に囲まれた環境で健康的な少年の日々を過ごし、最も幸福で充実した日々であった。鳥羽の海の景色は遺稿の断片「海」に描かれている。しかし、兄弟たちは祖母がしゃぶっていた飴玉を貰ってなめたりしたため、やがて5人が初期感染することになる。 この年、異母弟・順三の母親・磯村ふくが腎臓病で死去し、順三とその養祖母・きくが梶井一家と同居するようになった。翌1912年(明治45年)4月、基次郎は6年生に進級し級長に選ばれた。同月、大阪時代の江戸堀尋常小学校6年生一行150名が鳥羽に卒業記念旅行に来た。基次郎が彼らのいる旅館を訪れると、かつての同級生と先生らは歓迎し、人気者だった基次郎をたちまち取り囲んだ。 1913年(大正2年)3月、全甲の優秀な成績で小学校を卒業した基次郎は、4月に兄と同じ三重県立第四中学校へ入学し、宇治山田市一志町(現・伊勢市一志町)にある兄の下宿先に同居した。そこは兄の同級生・杉本郁之助の家で、茶人で郷土史家の杉木普斎宅であった。第四中学では、洋楽に造詣の深い音楽の先生に楽譜の読み方を習い、これが音楽愛好の基礎となった。6月5日、64歳の祖母・スヱが肺結核で死去し、祖父・秀吉は数か月前の2月に大阪で死去した。 9月、鳥羽と宇治山田間の鉄道が開通し、新学期から実家の鳥羽より兄と一緒に汽車通学した。この頃、2人は近所の旧城主の老人に剣道を習っていた。10月、第四中学の懸賞短文で「秋の曙」が3等に入選し、校友会誌『校友』に掲載された。同月中旬、父が大阪の安田鉄工所の書記として転勤し、一家は大阪市北区本庄西権現町1191番地(現・北区鶴野町1番地)に転居した。基次郎と兄は再び、宇治山田市一志町の下宿から通学するようになった。
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