未完だった構想
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『ある崖上の感情』の発表から遡ること2年前の1926年(大正15年)8月、『ある心の風景』を発表した後の基次郎の元に、大手出版社・新潮社の雑誌『新潮』の編集者・楢崎勤から10月新人特集号への執筆依頼が来て喜ぶが、結局は最終締切日の9月15日にも間に合わず文壇への足がかりのチャンスを辛くも逃してしまったことがあった(詳細はKの昇天#執筆前の焦燥と打開を参照)。 その『新潮』からの執筆依頼を受けた8月中旬、基次郎は軍の簡閲点呼のために16日の朝に東京駅を発って、夜に大阪市住吉区阿倍野町(現・阿倍野区王子町)の実家に着いた。翌日の点呼の後もしばらく実家に滞在し、電車の運転手を主人公にした作品の構想を練っていた。 それは、帰省の際に大阪駅から阿倍野に向かう城東線から見た左右の家々や、東京の市電からいつも目にしていた家々の窓の内部に対する想像力を元にした、瞰下景や性をテーマにした作品の構想であった。 なお、その前年の1925年(大正14年)5月19日の日記では、当時住んでいた荏原郡目黒町字中目黒859番地(現・目黒区目黒3丁目4番2号)の八十川方の下宿地域に触れ、〈阪の上より眺めし町、の美観、いつか書かんと思ふ〉と書き、10月に発表した『路上』では、線路沿いから見える家々の内部の光景に惹かれると記していた。 窓から線路に沿つた家々の内部が見えた。破屋といふのではないが、とりわけて見ようといふやうな立派な家では勿論なかつた。然し人の家の内部といふものにはなにか心惹かれる風情といつたやうなものが感じられる。 — 梶井基次郎「路上」 しかし、この窓の内部のテーマを完成作に仕上げることに難航し、引き延ばしてもらった『新潮』の締切日にも間に合わずにそのままになってしまった。このとき基次郎の中には、主人公を3人の人物にすれば書けるという思いがあった。 また、1927年(昭和2年)のノートには、高台の街に移り住んだ主人公・宇津木留太郎が夜に崖上に立つ場面を描いた断片草稿があり、〈眼の下には屋根と窓ばかりの町々が横たはつてゐた〉、〈闇のなかのところどころには明け放した窓が眺められる〉、〈ある崖の上、その崖はある高台の町〉、〈ある崖の上から見ました〉という記述もある。 なお、こうした高台から眺める風景への興味は、基次郎が少年時代(9歳頃)に暮らした東京市芝区二本榎西町3番地(現・港区高輪2丁目6番地)の高台の借家から泉岳寺を見下ろす風景を見ていたことから始まったものとみられている(詳細は梶井基次郎#父の転勤――東京~鳥羽を参照)。
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