執筆前の焦燥と打開
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1926年(大正15年)8月に、大手出版社・新潮社の雑誌『新潮』の編集者・楢崎勤から10月新人特集号への執筆依頼を受けた梶井基次郎は、『青空』同人の中谷孝雄に「何だか君に悪いような気がするけど」と言いつつも、いよいよ文壇への足がかりの機会を得たと張り切り、締切日の9月5日に向けて一生懸命になっていた。 しかし同年1月あたりから悪化しはじめていた持病の結核が、夏の猛暑と同人誌『青空』の広告取りの疲労の蓄積でさらに進行し、麻布の医者から「右肺尖に水泡音(ラッセル)、左右肺尖に病竈あり」と診断されていた。大阪市住吉区阿倍野町(現・阿倍野区王子町)の実家に帰省し執筆作業に取り組んでいた基次郎は、原稿の締切日を9月15日まで延ばしてもらっていた。 基次郎は、以前『路上』で記した線路沿いから見える家々の内部の光景に惹かれるという挿話を、城東線の運転手を主人公にして小説化する構想を練るが、うまくまとまらずについに断念し、9月13日の夜行で上京。14日に新潮社に赴いて詫びに行った(この未完の作品の主題が、その後「ある崖上の感情」となる)。 この時に新潮社から寄稿依頼された新人は他に、藤沢桓夫、林房雄、舟橋聖一、久野豊彦、尾崎一雄、浅見淵らがいて、破約したのは基次郎だけだった。基次郎は新潮社からの帰り、新しい日記用に神楽坂の相馬屋で紙を買って心機一転を図ろうとした。この時期の行き詰まり感や結核の進行に焦っていた基次郎は、毎晩寝床で「お前は天才だぞ」と3度繰り返し自信の暗示をかけていた。 結局は僕一人が破約者だつた、社長とか中村氏(編集長の中村武羅夫)とか 楢崎氏 会話のなかへまじへる 僕の存在がそんな公人をdisturbしたと思ふとこそばゆかつた 結局重荷は下りたのだ 原稿を発表する機会を失つたといふ気持さらになし 況や原稿料といふ考へも。快豁。新しい出発 気持は意識もそれに加わり 明るく明るくなつて行つた — 梶井基次郎「日記 草稿――第八帖」(大正15年9月) 9月16日は、四谷区坂町(現・四谷坂町)の淀野隆三の下宿で『青空』の同人会が行われて次号のことを話し合うが、その際、次号への作品発表を申し出ると、外村茂は基次郎を無視するような態度であった。『新潮』の原稿を破約してしまったことへの不信からと思われたが、基次郎はそれを淋しく感じた。 そしてその夜、麻布区飯倉片町(現・港区麻布台3丁目)の下宿において執筆に取りかかるが筆が進まず就寝し、翌17日の大雨の朝から本格始動した。しかし描写がはかどらず、夕方買物から帰った後から書簡体形式を思いついた基次郎は、夜から調子が乗ってきて徹夜し18日の朝にかけて一気に『Kの昇天』を書き上げた。
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