執筆動機・作品背景
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「煙草 (小説)」の記事における「執筆動機・作品背景」の解説
この『煙草』は、三島由紀夫が通っていた学習院中等科が舞台背景になっており、その時代の〈感覚的記憶を玩弄〉して仕上がった作品となっている。実際に三島が初めて煙草を吸ったきっかけがこの作品の中の上級生2人だったかは定かではないが、中等科の頃だったのは事実らしく、1957年(昭和32年)に発表したエッセイ『わが思春期』では、学習院の通用門の前にあった古い小さな喫茶店で中等科の学友らと一緒に〈禁制のタバコを、こつそり吸ひはじめ〉、初めての味は〈ちつとも旨くない〉と書かれている。 三島は、終戦まもない1946年(昭和21年)1月の21歳直前に執筆したこの短編について、〈戦争直後のあの未曾有(みぞう)の混乱時代に、こんな悠長なスタティックな小説を書いたのは、反時代的情熱といふよりも、単に、自分がそれまで所有していたメチエの再確認のためであつた〉と、死の約5か月前の1970年(昭和45年)6月に振り返った自作自註で語りながら、〈正直なところ、私の筆も思想も、戦争直後のあの時代を直下に分析して描破しうるほどには熟してゐなかつた〉として以下に続けている。 旧作を読み返しておどろかれるのは、少年時代、幼年時代の思ひ出、その追憶の感覚的真実、幾多の小さなエピソードの記憶等が、少なくとも二十代の終り近くまでは実によく保たれてゐたということである。それらを一切失はせたのは、一つには年齢と、一つには社会生活の繁忙とであらう。きめこまやかな過去の感覚的記憶を玩弄してゐられるには、肉体的不健康が必要であり、(プルウストを見よ!)、健康体はそのやうな記憶に適しないのであらう。私が幼少年時の柔らかな甘い思ひ出を失ふ時期が、正に、私の肉体が完全な健康へ向う時期と符合してゐるのである。それに「煙草」一編の、煙草の匂ひやラグビー部の部室の「メランコリックな」匂ひにしても、病弱な少年にとつてこそ感覚の新鮮さをもたらすものであれ、正にその匂ひの中で十何年もすごしてしまへば、ただの日常感覚になつてしまふのだ。(中略)そしてこの短編に一番近い類縁を求めれば、それはおそらく堀辰雄の「燃ゆる頬」であらう。 — 三島由紀夫「解説」 なお、この作品発表当時の同年1946年(昭和21年)に刊行されるはずだった短編集に寄せた跋文においては、〈私小説が読者に与へる安心感を逆用した小説である〉と自作解説し、〈愛してゐる〉作品だと述べている。 小品ながら、自作の中では愛してゐるものの一つで、自信があるといふのではなしに、愛してゐると云ふのが相応しいにちがひない。母校を共にした人には焼失した部室の記憶や今は鬱蒼たる趣を失つた森の思ひ出が、別種の興味をよびおこすかもしれないが、もしかすると作者はさういふ先入主に涵り、さういふ先入主ゆゑにこの作品を愛し、……否、自分にとつて愛すべき作品を生み出さうが為にこれを書いたのではあるまいか。なぜなら作品の出来てゆく過程は夢のやうなもので、たしかに目が覚めてゐるつもりでゐてもまだ夢みてをり、深い夢から覚めても浅い夢の中で夢みてゐる場合が多く、また全く目が覚めてしまつたら作品の成立ちやうもないからである。 — 三島由紀夫「跋に代へて」(1946年夏) この作品発表2年後の1948年(昭和23年)では、〈四つの処女作〉のうちの〈第三の処女作〉と位置づけながら、〈大して愛着のある作品ではない〉としているが、他の『酸模(すかんぽう)』『彩絵硝子(だみえがらす)』『盗賊』を含めた〈四つの処女作〉全体を、その〈はかなさの故に〉愛して憎むと纏めている。 これがいはゆる文壇的処女作であらうが、大して愛着のある作品ではない。私の文学上の理想に全部逆行したやうな作品で、どうしてそんなものができたか自分ながら不思議で、この作品が、終戦後スポッと出て来たのに未だに妖しい感じがしてゐる。何か長い恋愛小説を書いてゐて成らず、その序章を独立させて短篇にまとめたものである。(中略)真夏の朝露にぬれた百合のやうな処女作を右の四つのうちに持つたと私は思はない。朝の花々のめざめのやうなめざめを、これらのうちの一作でも閲(けみ)してゐると私には思はれない。私はたえずもつと深く夢みようといふ姿勢で文学に志しながら、たえず文学それ自身から反撥されて来たのである。これらの四つの処女作は、私の文学的志向と私の作品とのこえがたい矛盾の上にたまたまかけられた虹のやうなものだと感じ、そのはかなさの故に作者はこれらの作品を愛し、そのはかなさの故に作者はこれらの作品を憎むのである。 — 三島由紀夫「四つの処女作」 『煙草』を執筆した直後の三島は、他の7編の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、など)と共に、七丈書院と合併した筑摩書房の雑誌『展望』に持ち込んだ。編集長の臼井吉見は、あまり好みの作風でなく肌に合わなくて好きではないが「とにかく一種の天才だ」と『中世』などを採用しようとするが、顧問の中村光夫から「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と叱咤されたため全部没とした。 それと同じ頃の1月27日、三島は『煙草』の原稿と『中世』の原稿を携えて鎌倉に住む川端康成を訪ねた。三島は、終戦前、途中まで雑誌掲載された『中世』を川端が賞讃していたという話を人伝に聞いていたため、それを頼みの綱に『中世』と一緒に『煙草』の原稿も渡した。当時、鎌倉文庫から雑誌『人間』を創刊したばかりの川端は、編集長の木村徳三にそれらを推薦して、先ずは『煙草』の掲載が決まった。 そして、やや間があって同年6月に掲載された。この掲載は三島にとって、〈「救助の手」の最も大きなもの〉であり、戦後文壇への足がかりにもなった。また、それ以降、川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられることにもなった。 『煙草』の初掲載に続いて、『中世』全編、『夜の仕度』、『春子』なども雑誌『人間』に載ったことで、〈『人間』に小説を書いた三島君〉という、いわば肩書のようなものも付き、戦後の新しい文学的友人を持つきっかけにもなった。
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執筆動機・作品背景
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野坂昭如は『エロ事師たち』について次のように説明している。 ぼくはオチンチンの小説を書きたいと考えて、「エロ事師たち」を書いた。これは決して男根、魔羅、玉茎の事ではなく、はかなくあわれなオチンチン小説であり、スブやんはそれを本来の姿にもどすべく努力するドン・キホーテといえよう。 — 野坂昭如「あとがき」(『エロ事師たち』) 舞台設定は、1962年(昭和37年)から1964年(昭和39年)暮までで、執筆年とほぼ重なり、主人公の年齢も当時の作者・野坂の年齢と近く、誕生日が10月10日という点は同じになっている。主人公の住いとなっている守口市も、終戦時に野坂が住んでいたことのある地である。また、作中にブルーフィルムや、トルコ風呂、白黒ショー、エロ写真、ゲイバーなど様々な昭和の風俗も織り込まれているが、野坂自身、趣味でブルーフィルムを蒐集し自宅で上映していたり、ゲイバーでバーテンをしていた経験もあり、野坂の身近にいたブルーフィルムの業者などから見聞した裏社会の断面が作品に生かされている。また、主人公の母が神戸空襲で死んだ設定で、回想部で描写される戦火で死んだ人々のグロテスクな屍の目撃談など、空襲で養父を亡くした野坂自身の戦争体験と重なる部分も見受けられる。 主人公「スブやん」の名前は、当時野坂が引っ越したばかりの六本木の高層アパートの隣に住んでいた兼高かおるの母親が飼っていた狆の名前が「スブタ」だったことから、ヒントを得た。なお、「恵子」という名前を主人公の義娘の名前に付けたのは、『火垂るの墓』のモデルとなった妹・恵子への思いがあったからだという。 なお、『エロ事師たち』は三島由紀夫や吉行淳之介に推奨されたが、これについて野坂は71歳の時、阿川佐和子との座談で、吉行や三島が『エロ事師たち』を認めてくれなかったら、自分はここにはいないと語っている。
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