執筆動機
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三島は『禁色』を執筆するにあたり、〈廿代の総決算〉だという意気込みを見せ、〈自分の中の矛盾や対立物なりの二人の「私」に対話させようとした〉と述べている。また第二部が完結した後には、次にように語っている。 私は年齢と共に可成自分の感受性を整理してきたと思つてゐるが「禁色」二部作は、その総決算の意味で、もつとも感性的な主題を「手を濡らさずに水のなかからとりだして」みようと試みた試作である。 — 三島由紀夫「堂々めぐりの放浪」 なお、『禁色』の創作ノートには、〈螺旋状の長さ、永劫回帰、輪廻の長さ、小説の反歴史性、転生譚〉といったものが書き記されており、のちの最後の長編『豊饒の海』を予告するような言葉も見受けられる。
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執筆動機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 08:25 UTC 版)
三島は当時、『軽王子と衣通姫』のような作品を書かなければいられないという動機について、「たえまない渇きが、今私が旅してゐるところは沙漠だといふことを否応なしに教へてくれる」と表現し、それはそこが「沙漠」だと教えてくれるだけではなく、「時には、はげしい渇きが、私の行くところをどこも沙漠にかへてしまふのでした」と述べている。そして三島は喩えとして、聖フランチョスコと聖キアラが食卓に会して神に酔っていた時に彼らの「心を燃やした神の愛の火」が、「可見の火」になり、遠くの村人たちに火災に見えたという奇蹟の伝説に触れて、それと同様、「芸術家の魂をもやす火」が「可見の芸術作品」になったということが、今では奇蹟や伝説にすぎなくなり、一方で、「魂をもやさずに、附木に本当の火をつけてふりまはす物騒な芸術家」がいたり、「切なく魂をもやしつづけながら、もはや手でさはつて熱くなければ火ではないと思ひ込んでゐる人々に、どうして可見の魂の火を示したらよいかと思ひ悩んでゐる芸術家」がいることを「魂の火」に喩えながら、以下のようにその心境を語っている。 ――しかし一体これからの世の中では、魂の火を可見の焔にまでもえつのらせる異常な信仰は不必要なものなのでせうか。火といへば、すぐ役に立つ・手にふれれば熱い・あの見紛ひやうのない火だけで沢山なのでせうか。――これは読者諸兄と共に深く考へてみたい問題の一つです。ある真実な読者が、先頃、この集のなかの「軽王子と衣通姫」から、作者と世代を同じくする者の、いはば「時代の痛み」ともいふべきものを感得したと告げてくれました。この評言は、私を感謝の気持でいつぱいにしてくれました。 — 三島由紀夫「跋」
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執筆動機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:57 UTC 版)
なぜ、紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても、直接明らかにした資料は存在せず、古くからさまざまに論じられている。古注には、 村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望されて書き始めたとする『無名草子』に記されている説 藤原氏により左遷された源高明の鎮魂のため、藤原氏一族である紫式部に書かせたという『河海抄』に記されている説 などがある。近代以降にも、 作家としての文才や創作意欲を満たすため 寡婦としての寂しさや無聊を慰めるため 式部の父がその文才で官位を得たように式部が女房になるため といったさまざまな説が唱えられている。
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執筆動機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 06:41 UTC 版)
『岬にての物語』は、戦時中の1945年(昭和20年)7月9日から学徒勤労動員先の神奈川県高座郡の海軍工廠で起筆され、終戦直後の8月23日にかけて執筆された作品である。三島はこの作品について、〈忘れがたい作品〉、〈少年時代の終末の感傷が書かせた物語〉だとし、空襲の激化の間に、〈赤紙が来ようが来まいが、一億玉砕は必至のやうな気がして、一作一作を遺作のつもりで書いてゐた〉作品の中の一つだと振り返っている。
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三島由紀夫は、恋愛小説『愛の疾走』を連載するにあたって、以下のように〈新らしさ〉の意味について語っている。 新らしい女性、新らしい恋愛、と一口にいふけれど、トレアドル・パンツをはいてスクスクを踊るだけが新らしいといふわけではない。昔から、恋愛と、それに演じられた女性の役割は、意識的な革命家とはちがつて、無意識のうちに、社会の革命を招来したことである。近松の恋愛劇も、シェークスピア劇に描かれた恋愛もさうであつた。私は、日本の社会の変貌とそのギャップに生ずる恋愛の新らしい力を、明るく、愉しく、描いてみたいと思つてゐる。 — 三島由紀夫「作者の言葉」(『愛の疾走』)
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自身で〈私小説〉〈半ば自伝的な作品〉だという『詩を書く少年』を執筆した動機について三島由紀夫は、自分を詩人だと信じていた少年時代の幸福感を定着しておきたいという思いもあったとしている。 自分が贋物の詩人である、或ひは詩人として贋物であるといふ意識に目ざめるまで、私ほど幸福だつた少年はあるまい。その目ざめから以後、私は小説家たるべき陰惨な行程を辿るのであるが、あのやうな幸福感を定着したいといふ思ひが、たまたまこの小品の形をとつた。これを書き、これを読み返して、私は文句を言はせぬあの幸福感は何に由来してゐたのかと考へる。それは一旦私を見捨て、又私から見捨てられたものであるが、三十一歳の今日、少年期の幸福感が再び神秘な意味を帯びはじめたやうに思はれる。 — 三島由紀夫「おくがき」(『詩を書く少年』) また、自分が〈詩人〉ではなかったことを発見し、〈小説家〉になった転機を書いておかなければならなかったとしている。 学習院中等科時代の鼻持ちならぬ少年の自分を、わざと甘く、ナルシシズムに溺れて書いた。その少年のナルシシズムと、先輩のナルシシズムの親和と、見せかけの友情と、乖離。そこに先輩のナルシシズムの滑稽さを如実に見た少年は、同時に自分の無意識のナルシシズムの滑稽さを発見して、自意識に目ざめる。それは少年が、自分は詩人ではなかつたといふことを発見する転機となる。私が詩人にならず、散文作家になつた、その転機はすべてここに隠されてゐるから、私はどうしてもこのことを書いておかなければならなかつた。 — 三島由紀夫「あとがき」(『三島由紀夫短篇全集・5』) なお、『詩を書く少年』のRのモデルとなった坊城俊民は、当時三島と「〈詩人〉の定義」で言い争ったことがあるとし、「私が龍之介の文学論を盾に、最も純粋な文学者を詩人とよんだのに対し、三島は〈小説家〉と〈詩人〉を峻別して譲らなかった」と述べている。また、三島は自身を〈詩人〉と思い込み、坊城と手紙の交換をしていた14、15歳の頃が、〈小生の黄金時代〉で、その時以上の〈文学的甘露〉はなかったと自決の6日前に回顧している。
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執筆動機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 13:11 UTC 版)
「イノベーションと企業家精神」の記事における「執筆動機」の解説
第二次大戦後まもなく米国で最初にマネジメント(経営管理)を体系化したという自負のあるドラッカー が、「企業家経済」が興隆する本書執筆前の約20年を過ごして、自らが四十年前に経営管理一般について行ったのと同じことを「イノベーションと企業家精神」に対しても行わなくてはならないと悟り本書を書くに至ったのだという、執筆経緯がプロローグで明かされる。
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