詩人として
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旧制専門学校を中途退学してからは、佐束村に戻って文学活動を続けることにした。同じ旧制中学校の先輩でもある文芸評論家の窪川鶴次郎から、大いに励ましを受けた。同人活動にも取り組んでおり『東海文学』の同人となったが、警察当局より『東海文学』は思想弾圧を受けることになる。この思想弾圧は、のちに「静岡県下における人民戦線事件」と呼ばれることになる。1935年(昭和10年)、静岡県浜松市に転居することにした。1943年(昭和18年)、第一詩集となる『春幾春』を刊行した。 太平洋戦争終結後は、文芸誌である『中部文芸』の編集発行に携わることになり、1946年(昭和21年)6月に創刊号を発行した。ところが、この文芸誌に掲載された松本長十郎の随筆「時局雑想」にダグラス・マッカーサーの改革は不十分だとする主張が含まれていたため、物議を醸すことになった。マッカーサー率いる連合国軍の施策を批判するものだとされ、連合国軍最高司令官総司令部の検閲により、編集者だった菅沼が検挙される羽目になった。その結果、『中部文芸』は創刊号のみで廃刊に追い込まれたが、それに代わる新たな文芸誌として同年11月に『文芸解放』を創刊した。そのほか、同年8月に後藤一夫により創刊された詩誌『詩火』においても積極的に活動した。1963年(昭和38年)、同人文芸誌である『遠州文学』を創刊した。滝茂が編集人として、菅沼が発行人として、それぞれ奥付に名を連ねた。同年、同人詩誌である『麒麟』の主宰を務めることになった。埋田昇二が編集人として、菅沼が発行人として、それぞれ奥付に名を連ねた。1981年(昭和56年)、かつて「静岡県下における人民戦線事件」により弾圧を受けた関係者らにより同人総合誌として『独立文学』が創刊されることになり、その編集同人を務めることになった。そのほか、浜松読書文化協力会や浜松ユネスコ協会にてそれぞれ会長を歴任するなど、浜松市の文壇を代表する一人として活躍した。1995年(平成7年)8月30日、死去した。
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詩人として
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詩人としても一流で、李白と交友があった。代表的な詩には以下のものがある。 『回郷偶書』(七言絶句) 少小離家老大回 郷音無改鬢毛衰 児童相見不相識 笑問客従何処来 『詠柳』(七言絶句) 碧玉妝成一樹高 萬條垂下緑絲條 不知細葉誰裁出 二月春風似剪刀 『題袁氏別業』(五言絶句) 主人不相識 偶坐為林泉 莫謾愁沽酒 嚢中自有銭
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詩人として
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作品に、「塞下曲」(塞下の曲)(七言絶句)がある。 塞下曲 寒塞無因見落梅 寒塞(かんさい) 落梅(らくばい)を見るに因(よし)無し 胡人吹入笛声来 胡人(こじん) 笛声(てきせい)に吹き入れ来(きた)る 労労亭上春応度 労労亭上(ていじょう) 春応(まさ)に度(わた)るべし 夜夜城南戦未回 夜夜(やや)城南 戦いて未だ回(かえ)らず
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詩人として
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ソネットを英語で初めて書き、ペトラルカのソネットを英語に訳した。ルキウス・アンナエウス・セネカおよびホラティウスに倣うほか、新しい詩の形式を実験した。ヘンリー・ハワードと共に、イギリスにおけるソネットの父と見なされている。
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詩人として
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また、遯吾は水城と号して詩や書に多くの作品を残し、幕末の頼山陽(らいさんよう)に比べうる偉人であると評された。号は水城。なお、つぎのようなエピソードが伝えられている。伯爵松浦詮が御進講終了後、天皇から「当今国内の学者で詩を能くする者は誰か」という御下問に、松浦は「文学博士建部遯吾の如きはその一人でございましょう」と奉答したとのことである。 建部遯吾書翰 : 大隈重信宛 大正10[1921] (c)Waseda University Library
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詩人として
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明代中期、15世紀後半の成化期に李東陽ら茶陵派が登場し、復古主義的な傾向を打ち出していた。続く弘治・正徳(15世紀末期から16世紀初頭)年間には、李東陽が抜擢した李夢陽・何景明ら前七子が活躍。前七子は李東陽らの擬古主義をさらに推し進めた。唐代詩文の「格調」を模した擬古調で詩作することを主張し、「格調説」と称される文学理論を展開した。 これらの動きを受けて李攀竜は擬古主義をさらに推進し、「文の前漢より、詩の天宝より下、倶に観るに足るものなし」という持論を展開。盟友である王世貞もまた「文は必ず西漢、詩は必ず盛唐、大暦以後は書を読むことなかれ」と称し、やや教条主義的に擬古文体を追求していった。両人は李王と称され、さらに同様の復古主義的な詩人である謝榛・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫らをあわせ、前七子に対して「後七子」と称された。 李攀竜の作品はその主張の通り、秦漢の文体や盛唐の詩のつぎはぎ調が多く、後に李贄・袁宏道らが出て批判されるようになると、彼の詩文は先人の模倣に過ぎず、文学を堕落させたものとして激しく攻撃されることになる。しかし格調高い文体の追求に専念したこともあり、盛唐の詩に劣らぬ格調を持つ詩を残したのも確かである。 杪秋 太華山の絶頂に登る二首 其一 蒼龍半掛秦川雨 蒼龍半ば掛かる 秦川の雨 石馬長嘶漢苑風 石馬 長く嘶(いなな)く 漢苑の風 地敞中原秋色盡 地は中原を敞いて秋色尽き 天開萬里夕陽空 天は万里を開いて夕陽空し 歳杪放歌 終年著書一字無 終年 書を著して一字無し 中歳學道仍狂夫 中歳 道を学んで仍お狂夫 勸君高枕且自愛 君に勧む 高枕 且に自ら愛すべし 勸君濁醪且自沽 君に勧む 濁醪 且に自ら沽(か)うべし 何人不説宦遊樂 何人か説わざる 宦遊は楽しと 如君棄官復不惡 君の如く官を棄つるも復た悪しからず 何處不説有炎涼 何れの処か説わざる 炎涼有りと 如君杜門復不妨 君の如く門を杜すも復た妨げず 縱然疎拙非時調 縱然(たとえ)疎拙にして時調に非るも 便是悠悠亦所長 便(すなわ)ち是れ悠悠 亦た長ずる所なり 作品集には『李滄溟集』16巻がある。また古詩を選んで編纂した『古今詩刪』34巻など。また、唐代詩人の作品を集めた詩集として日本でもポピュラーな書である『唐詩選』も李攀竜によって編纂されたと言われている(異説もある。詳細は『唐詩選』の項を参照)。日本の江戸時代、荻生徂徠に始まる古文辞学派へ与えた影響も大きい。
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詩人として
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博学であり、詩は李商隠、温庭筠と並び称される。また作品に、七言絶句の『折楊柳(せつようりゅう)』がある。 折楊柳 枝枝交影鎖長門 枝枝(しし) 影を交(まじ)えて 長門(ちょうもん)を鎖(とざ)す 嫩色曾霑雨露恩 嫩色(どんしょく) 曾て霑(うるお)う 雨露の恩 鳳輦不来春欲尽 鳳輦(ほうれん)来(きた)らず 春尽きんとし 空留鶯語到黄昏 空しく鶯語(おうご)を留めて黄昏(こうこん)に到る
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詩人として
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イスマーイールはハターイーの筆名を使って作詩に携わっていたことでも知られている。彼は伝統的なペルシア文学の作品に深い影響を受けており、特にフェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の影響を受けていたと思われている。ペルシア文学研究者のマーチン・バーナード・ディクソンとスチュアート・キャリー・ウェルチは、イスマーイールの作品の一つである Shāhnāmaye Shāhī が、幼い息子タフマースブへの贈物ではないかと意見を投げかけた。ウズベクのムハンマド・シャイバーニーに勝利した後、イスマーイールはゴール出身の有名な詩人であるHatefiに、戦勝と新王朝を讃える『シャー・ナーメ』と同じ形式の叙事詩の制作を依頼した。依頼した叙事詩は未完のままに終わったが、後の時代にサファヴィー朝の王たちに奉げられた英雄詩の見本となった。 イスマーイールは詩作において、主に従者の多くが使用していたアゼルバイジャン語で作詩を行った。イスマーイールはアゼルバイジャン文学における重要人物の一人であり、詩人のイマードゥッディーン・ナシミ(英語版)とともに、より多くの読者の心に訴えかけるために、詩文において簡素なアゼルバイジャン語を使用することを提案した最初の人物と考えられている。また、彼がアゼルバイジャン語を選択した理由には、政治的な意図もあったと思われる。 彼の作品は、現在のアゼルバイジャンでも知名度が高く、約1,400のアゼルバイジャン語の詩が残っている。アゼルバイジャン語による詩の他に、50ほどのペルシア語での詩文も現存している。 イスマーイールは自らに神性が宿ると信じ、また初代イマーム・第4代正統カリフのアリーの血統に属しているとも考えていた。彼の作品の内には、この二つの思想が特に強調される傾向があった。詩はシーア派の教えとサファヴィー教団の思想を広める役割を持っていたが、その多くは愛について語ったものであり、スーフィズムの思想が色濃く表れていた。詩文以外の著作には、忠言を記した Nasihatnāme、愛の美徳を称えた未完の著作 Dahnāme がある。
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詩人として
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「フィリス・ホイートリー」の記事における「詩人として」の解説
1768年、ホイートリーは"To the King's Most Excellent Majesty"を書き、ジョージ3世が1765年印紙法を撤回したことを称えた。フィリスはアメリカ合衆国の独立を支持するようになっていった。1770年にはフィリスは福音主義の立役者である伝道者ジョージ・ホウィットフィールドの死をいたむ挽歌“An Elegiac Poem, on the Death of the Celebrated Divine George Whitefield”を書き、これは大評判になった。 植民地に住む多くの人々は、アフリカからやってきた奴隷が優れた詩をものすということが信じられず、フィリスは1772年に自らが詩を書いたことを証明するため法廷に出て自分を弁護せねばならなくなった。 1773年、20歳の時、フィリスはホイートリー家の息子であるナサニエルに同伴してロンドンに行ったが、これはフィリスの健康のためでもあり、またジョンの妻スザンナがイギリスのほうがフィリスが詩を刊行できるチャンスが得られるだろうと考えたからでもあった。フィリスはロンドン市長をはじめとする様々な重要人物に会った。ハンティンドン伯爵夫人セリナ・ヘイスティングスがフィリスの才能に目をつけて詩集のパトロンとなり、1773年の夏にセリナへの献辞とともに詩集Poems on Various Subjects, Religious and Moral by Phillis Wheatley, Negro Servant to Mr. John Wheatley, of Boston, in New Englandが刊行された。セリナが病気だったため、直接フィリスと会うことはできなかった。2人の間に取り交わされた書簡が残っている。 スザンナ・ホイートリーが病気になったため、フィリスは詩集が刊行される前にボストンに帰国することとなった。詩集が刊行された後、フィリスはホイートリー家から解放され、奴隷の身分ではなくなった。 フィリスの詩集Poems on Various Subjects, Religious and Moralは1816年までに11版が刊行された。1773年の『ロンドン・マガジン』ではこの詩集がとりあげられ、「驚くべき天才の作品というわけではない」が「若く、教育を受けていないアフリカ人」の作品としては注目すべきものだという批評が掲載された。 詩作のみならず、フィリスは書簡などを通じて自らの意見を書き残しており、他の知識人との交流もあった。1774年、フィリスは知人であったサムソン・オッカムへの手紙で、アメリカにおいては奴隷にも生まれながらに人間としての権利が与えられるべきだというオッカムの考えを賞賛している。イギリスの慈善活動家であるジョン・ソーントンとも手紙のやりとりをしており、ソーントンは奴隷制度廃止運動家のジョン・ニュートンへの手紙でフィリスの詩について論じている。 1775年に、フィリスは"To His Excellency, George Washington"という詩をジョージ・ワシントンに送った。. 1776年、ワシントンはフィリスをマサチューセッツ州ケンブリッジの基地に招待し、フィリスは3月に招待に応じた。トマス・ペインはこの詩を1776年4月の『ペンシルヴェニア・ガゼット』に再掲した。 フィリスは1774年にスザンナが亡くなるまで看病し、1778年頃まではもとの主人であるホイートリー家の人々と暮らしていた。ジョン・ホイートリーが亡くなった後、1778年にフィリスは自由黒人のジョン・ピーターズと結婚した。夫妻は生活に苦労しており、生まれた子供のうち2人が赤ん坊のうちに死んでしまった。 1779年にフィリスは2冊目の詩集の計画書を作ったが、金銭的な問題、解放後にパトロンがいなくなったこと(本の刊行はしばしば事前講読予約により買い取りが決まっていることを前提に行われていた)、アメリカ独立戦争 (1775–83) などの事情により果たせなかった。しかしながらこの2冊目の詩集で刊行される予定だった詩の中にはのちにパンフレットや新聞に載ったものもある。 夫のジョン・ピーターズは借金を抱えるようになり、フィリスはボストンの寄宿舎でメイドとして働くようになった。1784年12月5日、31歳で亡くなった。幼い息子もほぼ同時に亡くなっている。フィリスはグラナリー墓地に葬られた。
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詩人として
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1889年に森春濤門下の山中耕雲が新潟に訪れ、勧められて『新文詩』に送り掲載された。 送友人遊新潟 五峰樵史 簾影灯光映緑潮 知名到日駐蘭橈 為吾応訪珠娘宅 住在紅欄第二橋 晩年の作品は国史を論じる詠史詩が多い。 1883年に王治本『舟江雑詩』(光緒9年)の翻刻。1918年に新潟新聞に掲載した『北越詩話』を刊行、越後出身者など900人3500首の詩文が収められている。 印の収集も趣味で、高芙蓉刻の鶏血石の印を市島謙吉から譲り受ける時に、七言三十四句の大作「鶏血石歌贈市島春城」を贈っている。このために仁一郎と市島は相互に一席を設けて、仁一郎はその席上でこの「鶏血石歌」を大幅に書き、招かれていた寺崎広業が画を描き、浜村蔵六が筆を添えた。これは新潟県立図書館に所蔵されている。 三周忌の1925年(大正14年)に館森袖海、長男・献吉が編纂した『五峰遺稿』(全三冊)が刊行された。
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詩人として
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「ジョン・ウィルモット (第2代ロチェスター伯)」の記事における「詩人として」の解説
ポータル 文学 ロチェスターは1675年からドライデンと仲違いした後は、オトウェイ、ナサニエル・リー、サー・フランシス・フェインなどの新進の劇作家を保護し、自らは宮廷を機知にあふれた詩で批判し、恋愛詩を書き、女優のバリーを導いて才能を開花させることができた。しかし作品のいくつかは卑猥であり、用語も瀆神的であったために、放縦であった同時代の人からも「ポルノ詩人」とみなされた。後世になると、現代のイギリス詩人ピーター・ボーターがロチェスターを「ボードレールとアルテュール・ランボーの先駆者」と呼ぶなど再評価は進んでいる。
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詩人として
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1921年(大正10年)、西條八十の門下に入る。『黄金の灯台』『蒼空に泳ぐ』『海南風』等の詩集により、海洋詩人と呼ばれた。 1924年(大正13年)1月、門下生と共に詩誌『棕櫚の葉』を創刊。『棕櫚の葉』は1925年(大正14年)12月に廃刊となるが、渡仏していた八十の帰国と共に1926年(大正15年)5月、全国詩誌『愛誦』が創刊されるとこれに参加、1934年(昭和9年)の廃刊まで編集主宰を務めた。『愛誦』廃刊後は1934年(昭和9年)4月より全国詩誌『昭和詩人』を主宰した。
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詩人として
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管道昇は、女性が使うことは稀な文体を使って自身の絵に詩を書き込んでいた。管道昇の詩には、夫や子供への心配がユーモラスに表現されている。夫の趙孟頫は、妾を囲おうとした際に「友人が皆やっていることを目論んでいるだけで、(管道昇が)正式な妻であることに変わりはない」と妻に請け合う短い詩を書いた。管道昇はそれに対して短い詩『我儂詞』を書き、夫の目につく所に置いていった。当時の中国において、特に官吏や高級官僚の間で妾を囲うことは一般的な慣習であった。その後この話題は二度と持ち上がらなかったようで、管道昇の死後、趙孟頫は再婚をしなかった。
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詩人として
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蘇軾は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』や注釈が充実している『蘇軾全集校注』に纏められている。通釈は主に『蘇東坡 漢詩大系 第17巻』(近藤光男訳、集英社、初版1964年)による。 題西林壁(西林の壁に題す)原文書き下し文通釈横看成嶺側成峰 横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる 正面から眺めると尾根続きの嶺みね、側面へ回って眺めると切り断った峰となる 遠近高低各不同 遠近・高低いつも同じきは無し 廬山は眺める位置の遠近高低によってそれぞれ違った姿に見える 不識廬山真面目 廬山の真面目を知らざるは 廬山そのものの誠の姿はどうなのか、さっぱりわからないのは 只縁身在此山中 只だ身の此の山中に在るに縁る 自分が廬山の中に身を置いているからである
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詩人として
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以後は、筆名を「ガーリブ」に改め、ウルドゥー語やペルシア語による詩を、カスィーダ、ガザル、マスナヴィーといった形式で作り続けた。私生活では父親たちの年金をめぐる長い訴訟を争い、実弟の発狂というトラブルもあった。妻のウマラーゥ・ベーグムとの間には子どもが7人生まれたが、いずれも夭折した。実子は育てられなかったが、妻の甥のザイヌルアービディーン・ハーンは、アーリフ(ʿĀrif)という筆名を持つ詩人で、彼をガーリブはことのほか、かわいがった。また、1852年にアーリフが亡くなると、その息子たち2人を養った。 1828年には他人に横取りされている年金の増額を求めて、イギリス領インド帝国の首都が置かれたカルカッタに赴き、2年間そこに留まって裁判をした。カルカッタでは、そこで開かれていたムシャーイラ(ウルドゥー語版)という詩会に参加したが、地元の知識人と文学的な論争になり、ガーリブは Bād-e moḵālef というマスナヴィーを書いて「インドのペルシア語詩人は必ずしも定型にこだわる必要はない」という反論もしくは言い訳をした。 ガーリブには貴族的な生い立ちに由来する放蕩の癖があり、しかもそれを自覚的にやっているようなところがあった:41-42。ガーリブの人生は常に放蕩ゆえの経済的欠乏がついて回った。1837年には呑み屋でのつけがたまりすぎて、イギリス人のワイン商に訴えられ、短期間牢屋に入った。このときはラホールのマハラジャの息子が立て替えたが、1841年には自宅で賭場を開帳していたことがバレて牢屋に入った:41-42。これは当時大変不名誉なことであったが:41-42、ガーリブは1847年にも賭博で逮捕された。このときも友人たちが罰金を支払い、寛大な扱いを受けて、6ヶ月の入獄の宣告を受けていたところ、半分の刑期で出所した。 ガーリブの詩人としての名声は高く、1840年にはデリー大学(英語版)でペルシア語教授のポストを打診されるほどであった。また、ムガル朝の皇帝バハードゥル・シャー2世(1775年 - 1862年)が催すムシャイーラにも継続的に出席していたが、賭博での逮捕歴などが問題視されて、公式にムガル朝の禄を食むようになったのは1850年7月4日のことである:41-42。ガーリブはムガル朝の歴史をティムール朝から説き起こす書簡をザファルに送り、皇帝は返礼として年に600ルピーの年金を与えると共に、「ナージュムッダウラ」、「ダビールルムルク」などの称号を与えた。バハードゥル・シャーは、自らも「ザファル」の雅号を持つ詩人であり、ムハンマド・イブラーヒーム・ゾウク(英語版)(1789年 - 1854年)を文学上の「師匠」(ustad)としていた:41-42。 ガーリブより8歳ほど年上のゾウクは、いろいろな面でガーリブと対照的な詩人であった:41-42。父親は歩兵であり、家が貧しかったため、読み書きを習うマクタブも卒業できなかった:41-42:66-67。ムシャーイラ(詩作大会)で才能を認められ、友人がザファルの「師匠」(ustad)をしていた詩人であったため彼の紹介でザファルと知遇を得た:66-67。子どもの頃から高額の年金を得ていたガーリブに対し、ゾウクは、ザファルが1837年9月に62歳で皇帝になってようやく高額の年金を得るようになった:66-67。曖昧で装飾的な言い回しにより大衆受けはよくないガーリブの詩風に対して、ゾウクはシンプルで口語的な表現を好み:66-67、性格も控えめであった:41-42。既に何冊もディーワーン(詩集)を発表していたガーリブに対し、ゾウクはディーワーンを生前には出版しなかった:66-67。 ガーリブとゾウクは、後世にはもちろんのこと、同時代人にも好敵手であると捉えられており、2人にまつわる様々なアネクドートが伝えられている:41-42:66-67。1851年ごろにはザファルの息子のミールザー・ジャワーン・バフト(Jawān Bakht, 1841-1884)の婚礼の式辞(sihra)の文言をめぐってガーリブとゾウクは皮肉の応酬をするという事件(sihra incident)が起きた:41-42。このときは、師匠への侮辱は皇帝への侮辱と同じとして、ガーリブが謝罪した:41-42。ゾウクが病を得て1854年11月16日に亡くなると、ザファルはガーリブを「師匠」(ustad)と呼び、帝国の桂冠詩人としての地位をガーリブに与えた:18。 1854年ごろ、ガーリブはムスリムの思想家、サー・セイエド(サイイド・アフマド・ハーン)から手紙を受け取り、彼の著書『アーイーネ・アクバリー(英語版)』(アクバル大帝の憲法)に序文を書いてもらいたいと頼まれた。これはアクバル大帝の統治をイギリスのそれと比較して称揚するものであったが、ガーリブはサー・セイエドに対して、なぜ時代に合わせて行動しないのかと問い、断った。 1857年の「大反乱」は、ガーリブにも暗い影を落とした:46-47。詩人皇帝ザファルは大反乱の責任を取らされてイギリスによりビルマに追放され、ガーリブはシャーと近しかったという理由だけで年金支給が停止された。経済的に困窮したガーリブは、支給再開のために奔走した。弟のユースフも狂気のまま、同年に熱病で亡くなったため、ガーリブは喪失感を抱き、悲しんだ:46-47。 年金一時停止は1859年に解除されてラームプル藩王国から受け取れるようになり、この処置はガーリブが亡くなるまで続いた。経済的な晩年10年間は活発な詩作や言論活動を行った。ガーリブは、1866年頃から次第に体が衰えて1869年2月15日にデリーで亡くなった:46-47。墓所は、一族の墓があるニザームッディーン廟である。
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詩人として
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体が弱かったため仕事が長続きせず、職を転々とする。ひたすら読書にふけり、詩人・西條八十主宰の雑誌に作品を載せてもらったり手紙を出したりしているうちに交流を持つ。1935年、18歳の頃に西條に弟子入り、西條八十を迎えて「蝋人形」郡山支部を結成して主宰となる。「蝋人形」誌に多くの詩作を発表する。1936年、同期の塩谷賢司とともに詩誌「蒼空」を東京で発刊(第一期1~8号)。この頃から、太田博(ひめゆり、相思樹の歌作詞)、菊池貞三、三谷晃一(元福島民報社論説委員長)など多くの詩人を育てた。1940年、詩誌「蒼空」を郡山で復刊(第二期1~5号)。1946年、詩誌「蒼空」を福島で復刊(第三期~1948年)この時期の同人として内海久二(内海久次、郡山市民の歌作詞)がいる。
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詩人として
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離村後はアルバイトをしながら詩、短歌、俳句を制作を続け、2001年9月11日、草壁焔太主宰「五行歌の会」で編集作業を学ぶ。同年12月29日からは詩の朗読も開始。「交錯する水域を求めて01」にて初の本格的な朗読ライヴを始める。 2005年、第一詩集『朝のワーク』出版。2006年春、立教大学での朗読ライヴで歌人福島泰樹に出逢う。以後師事する。 2007年、第2詩集『魂の場所』(コールサック社)刊行。同詩集がH氏賞・日本詩人クラブ新人賞にトップノミネートされる。 同8月6日、広島平和記念公園内で野外平和祈念朗読「声をともして」を開催。NHKラジオに2回出演 2008年、第二詩集『魂の場所』を出版、H氏賞、日本詩人クラブ新人賞にノミネートされる。詩集『朝のワーク』が07年度文芸社VA大賞詩部門最優秀賞を受賞。同詩集が文芸社ビジュアルアートから復刻出版される。同年、「東京ポエトリーフェスティバル2008」に海外の詩人と福島泰樹、白石かずこ、高橋睦郎、ねじめ正一、夏石番矢などの作家と朗読参加。 2009年、朗読バンド「ムジカマジカ」結成。2010年、大衆文藝「ムジカ」代表となる。4月、朗読絶唱ワンマンライヴ「ムジカマジカ」を吉祥寺曼荼羅で開催した(2015年時点で通算13回)。同年8月、季刊文藝『月光』創刊号に巻頭作品として掲載される。同年9月より、角川春樹主宰「荒地句会」に招かれる。 2012年9月「ムジカマジカ」でフランス・パリ遠征ワンマンライヴを敢行した。 そのほか朗読では月乃光司主催「こわれ者の祭典」、成宮アイコ・葛原りょう共同主催「カウンター達の57577」を開催。
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詩人として
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1934年(昭和9年)10月、母・鐘が老衰のため死去した。同年12月、「母の死」を『思想』に発表する。『銀の匙』以来長らく小説や日記体随筆を書く作家だったが、1935年(昭和10年)に発表した詩集『琅玕』を端緒に、詩人としての文芸活動を開始した。1936年(昭和11年)に詩集『機の音』と『海にうかばん』、1937年(昭和12年)に詩集『吾往かん』、1938年(昭和13年)に詩集『大戦の詩』、1939年(昭和14年)に詩集『百城を落す』をそれぞれ岩波書店より立て続けに刊行した。
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詩人として
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早熟な詩人であり、北園克衛の影響をうけて10代から詩作をはじめ、15歳にして、北川冬彦が主宰する詩誌『時間』の同人になる。 1961年には詩、ジャズのイベント「新人類学会総会」を主催。日本で初めての「ツイスト・パーティ」であった。この頃、白石かずこと出会う。 その後、詩集を何冊か発行した後、1977年に北園克衛主宰『VOU』同人の同人となる。 また、詩の朗読活動に興味を抱き、1979年には「PRW」(ポエトリー・ロード・トウ・ザ・ワールド)の会を、白石かずこ、八木忠栄と発足。生涯にわたって、ポエトリー・リーディングの活動を行っていた。 1979年には自らの詩誌『gui』を創刊した。
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詩人として
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銭惟演は楊億・劉筠とともに『西崑酬唱集』に参加した西崑派の中心人物であった。晩年は後進を引き立てることを好み、河南府の主簿にすぎなかった梅堯臣の詩才を賞賛し「忘年の交わり」を結んだ。洛陽時代の幕下に欧陽脩・謝絳・尹洙・富弼がいる。
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詩人として
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1933年(昭和8年)24歳で同人誌「神戸詩人」の同人になる。詩の発表には森玉佐久男の名を使う。「詩学」同人の山下春彦と交友が始まる。同年から大阪鉄道局神戸倉庫庶務課に勤務し、職場で大衆作家の武川哲郎を知る。翌年、武川哲郎の紹介で多木伸を知り、共に「日本詩壇」に加盟する。1935年(昭和10年)2月に「神戸詩人」が終刊し、「詩学」の同人になるが、再度喀血して鉄道局を退職する。翌年の「日本詩壇」主催の文芸講演会に出席し、同席の詩人が萩原朔太郎に愚聞を発したため、これを大喝した。
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詩人として
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「アブラハム・イブン・エズラ」の記事における「詩人として」の解説
ヘブライ語詩は思想に富み、正格ではあるが、やや詩情に欠くという評価もある。
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