北宋代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:57 UTC 版)
こうして鉉は囚われの身になったが、思わぬことで北宋に仕官することになった。南唐滅亡後、太祖に李煜が謁見した時に鉉が随伴したところ、それを見て怒った太祖が激しく彼を責め立てた。これに対し鉉は、 「私めは江南国主の大臣でありました。そうでありながら国が滅びたこと、それだけで死に値する罪です。何でそれ以上に罪を問われる必要がありましょうか」 そのきっぱりとした言葉に太祖は逆に感心し、 「何という忠臣か。よかろう、余に李煜とともに仕えよ」 徐鉉の忠義ぶりを評価して重用することに決めたのである。 その後、太子率更令に給事中を兼任し、右散騎常侍、左常侍と歴任しながら、再び文人としての才能を発揮した。太祖とその次の皇帝である太宗は古典文学や書に極めて関心が強く、『太平広記』『文苑英華』といった類書など多くの書籍の編纂に関わることになった。 北宋期の鉉にとって特筆すべきは、篆書による書道の再興である。篆書による書道は唐代中期に李陽冰によって盛んとなったが、晩唐期に書道自体が衰微したことから一時的に途切れていた。南唐期から篆書に造詣のあった鉉はこれを復活させ、「李陽冰の後継」と呼ばれることになったのである。 さらにその規範テキストである後漢代の篆書中心の漢字字典『説文解字』を校訂し、記述の錯誤や後世確認された字の追加などを行った。この鉉校訂本は別名「大徐本」と呼ばれ、現在刊行されている『説文解字』の定本となっている。 このように2代にわたって皇帝に近侍し、文官として重きをなしたが、晩年左遷される。そして現地で寒気により健康を害し、淳化2年(991年)8月26日に死去した。享年76。
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