北宗と南宗への分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 22:44 UTC 版)
詳細は「北宗」および「南宗」を参照 五祖弘忍には、弟子筆頭の神秀(606年 - 706年)、その弟弟子の慧能(638年 - 713年)という優れた2人がいた。神秀は修行を通じて徐々に悟得する「漸悟」を規範としたのに対して、慧能は一足飛びに悟得する「頓悟」を旨とする違いはあったが、ともに禅宗の布教に尽力した。やがて神秀は則天武后に招かれ洛陽へ入って破格の待遇を受け、神秀の死後も一派は唐代帝室や官人の庇護と支持を得た。すると慧能の弟子の荷沢神会(684年 - 758年)が、神秀の教義を「北宗」と呼んで批判したため、東山法門派は北宗と、彼らの南宗に分裂してしまう。しかし南宗は支持を得ることができず一時は洛陽から追放されてしまうが、755年に始まる安史の乱に際し売牒(度牒を売る制度)を進言して粛宗の信頼を得ると、洛陽への復活を果たして徐々に信心を集め始め、神秀に代わり慧能を六祖に定めた。神会は洛陽の荷沢寺に拠点を置いたため、南宗は荷沢宗とも呼ばれたが、762年に神会が没すると求心力を失った。 845年(会昌5年)、武宗による会昌の廃仏で徹底した弾圧を受け、洛陽内の南北宗は廃絶してしまう。しかし、南宗の法嗣を受けた多くの禅僧たちが翌年の武宗の死後も活躍し、唐代から宋代にかけて後に五家七宗と呼ばれるまでに隆盛した。現在に伝わる全ての禅宗はここから派生したとされている。 なお、チベット(吐蕃)で行われたインド仏教と中国仏教の宗論であるサムイェー寺の宗論において、カマラシーラ(蓮華戒)等と対峙した中国禅僧・摩訶衍は、北宗の者であったと言われている。また、神秀の弟子であった普寂の弟子道璿によって、北宗は日本へも伝えられている。
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