北宋の領土失陥の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
宋が度重なる軍事的失態を犯し、華北を金に奪われたのには、様々な要因があった。宋の伝統的な歴史記述では、王朝の衰退の原因は徽宗の朝廷の悪事にあるとされている 。これらの物語は、徽宗とその官僚たちの道徳的な失敗を非難した 。しかし、1076年に改革派の王安石が宰相の位を追われると、新法党の力も弱り、改革運動は下火となった。また皇帝としてではなく画家としての能力に長けていた徽宗の治世は腐敗に満ちていた。徽宗は度重なる反乱によって国家が脅かされる中でも、庭園や寺院の建設に多額の資金を投じた。 アリ・ダニエル・レヴィンによる現代的分析では、軍や官僚の指導力不足に原因があるとし、華北の失陥は必然であったとする。軍部は過剰に拡張され、徽宗は国家資源を対西夏の戦争に投入して失敗した。宋は遼の分割を提案しこれが金を刺激することになった。宋の外交上の過失は金を過小評価し、金側の軍拡を見誤った事であった。馬を除く豊富な資源を持っていたが、戦闘時の資源管理が不十分であった。宋の前にあった広大な漢や唐とは異なり、宋は馬の大部分を飼育・調達できる中央アジアに大きな拠点を持っていなかった。宋側の将軍の李綱は、馬の安定供給がなければ、金の騎兵に対して著しく不利であり、「金が勝利したのは、彼らがカタフラクト(重騎兵)を使ったからであり、それに対して我々(宋)は歩兵で対抗したため、我々の兵士が敗走したのは当然だ」と述べていた。
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