北宋の滅亡
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当時、宋の北方の脅威であった遼は、皇帝や側近の頽廃により国勢が衰えてきていた。さらに遼の背後に当たる満州では女真族が完顔阿骨打を中心として急激に台頭し、金を建てていた。金と協力して遼を挟撃すれば、建国以来の悲願である燕雲十六州奪還が可能であると捉えた北宋の朝廷は、金に対して使者を送り、盟約を結んだ(海上の盟)。 宣和3年(1121年)、金は盟約に従い遼を攻撃したが、北宋は方臘の乱の鎮定のために江南に出兵中であり、徽宗自身の決断力の欠如もあって、遼への出兵が遅れた。翌年、ようやく北宋は北方へ出兵し、遼の天祚帝のいる燕京を攻撃した。宋軍の攻撃は失敗を重ね、成果を上げられないことを理由に誅殺されることを恐れた宋軍の指揮官童貫は、金に援軍を要請した。海上の盟では金は長城以南に出兵しない取り決めであったが、金軍はこの要請に応え、たちまち燕京を陥落させた。この結果、盟約通りに燕雲十六州のうち燕京以下南の六州は宋に割譲されたが、金軍によって略奪が行われていた上に住民も移住させられていたため、この地からの税収は当分見込めない状態であった。さらに金は燕京攻撃の代償として銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を要求したが、北宋はこれを受諾せざるを得なかった。 宣和7年(1125年)、このように燕雲十六州の一部奪還に成功した宋朝は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、こんどは遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗の逆鱗に触れ宋に対して出兵する事態を招く。12月23日(西暦で1126年1月25日)、慌てた徽宗は蔡攸や李綱・呉敏らと図って「罪己詔(己を罪する詔)」を出すと退位し、長男の趙桓(欽宗)に譲位して太上皇となった。徽宗はさらに金軍から逃れるべく、蔡攸やわずかな宦官だけを引き連れて開封を脱出した。ところが、鎮江に落ち着いた徽宗は、金軍が一時撤退した後も帰国の気配も見せず、自立の動きすらあった。そのため、欽宗・呉敏らの画策で開封に連れ戻されて幽閉され、蔡京父子・童貫らは配流され、後に蔡京ら病死者を除いて処刑された。 靖康元年(1126年)、金軍は開封を陥落させ、徽宗は欽宗らと共に金に連行された(靖康の変)。紹興5年(1135年)、徽宗は五国城(現在の黒竜江省依蘭県)にて54歳で死去した。またこの時、共に徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、天会5年(1128年)6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて、金の皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた。南宋を建てた高宗の生母であった韋妃は老齢に達するまでこの境遇を耐え忍び、南宋で高宗に迎えられて長寿を全うしたが、朱皇后はその境遇に耐えかねて投身自殺している。
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