北宋の滅亡とは? わかりやすく解説

北宋の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:28 UTC 版)

徽宗」の記事における「北宋の滅亡」の解説

当時、宋の北方脅威であった遼は、皇帝側近頽廃により国勢衰えてきていた。さらに遼の背後に当たる満州では女真族完顔阿骨打中心として急激に台頭し、金を建てていた。金と協力して遼を挟撃すれば、建国以来悲願である燕雲十六州奪還が可能であると捉えた北宋朝廷は、金に対して使者送り盟約結んだ海上の盟)。 宣和3年1121年)、金は盟約従い遼を攻撃したが、北宋方臘の乱鎮定のために江南出兵中であり、徽宗自身決断力欠如もあって、遼への出兵遅れた翌年、ようやく北宋北方出兵し、遼の天祚帝のいる燕京攻撃した。宋軍の攻撃失敗重ね成果上げられないことを理由誅殺されることを恐れた宋軍の指揮官童貫は、金に援軍要請した海上の盟では金は長城以南出兵しない取り決めであったが、金軍はこの要請応え、たちまち燕京陥落させた。この結果盟約通り燕雲十六州のうち燕京以下南の六州は宋に割譲されたが、金軍によって略奪が行われていた上に住民移住させられていたため、この地からの税収は当分見込めない状態であった。さらに金は燕京攻撃代償として銀20万両、絹30匹、銭100万貫、軍糧20万石要求したが、北宋はこれを受諾せざるを得なかった。 宣和7年1125年)、このように燕雲十六州一部奪還成功した宋朝は、金に占領され残りの州の奪還計画し、こんどは遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃画策した。しかしこの陰謀は金に露見し阿骨打の後を継いだ太宗逆鱗触れに対して出兵する事態を招く。12月23日西暦1126年1月25日)、慌てた徽宗蔡攸李綱・呉敏らと図って罪己詔(己を罪する詔)」を出すと退位し長男趙桓欽宗)に譲位し太上皇となった徽宗はさらに金軍から逃れるべく、蔡攸わずかな宦官だけを引き連れて開封脱出した。ところが、鎮江落ち着いた徽宗は、金軍一時撤退した後も帰国気配見せず自立動きすらあった。そのため、欽宗・呉敏らの画策開封に連れ戻され幽閉され蔡京父子童貫らは配流され、後に蔡京病死者除いて処刑された。 靖康元年1126年)、金軍開封陥落させ、徽宗欽宗と共に金に連行された(靖康の変)。紹興5年1135年)、徽宗は五国城(現在の黒竜江省依蘭県)にて54歳死去した。またこの時、共に徽宗の妃韋氏欽宗皇后朱氏など、宋の宮廷の妃、皇女あらゆる宗室女性女官宮女たちが、金軍慰安用に北に連行され後宮入れられた後、天会5年1128年6月には金の官設妓楼である洗衣院下されて、金の皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた南宋建てた高宗生母であった韋妃は老齢達するまでこの境遇を耐え忍び南宋高宗迎えられ長寿全うしたが、朱皇后はその境遇に耐えかねて投身自殺している。

※この「北宋の滅亡」の解説は、「徽宗」の解説の一部です。
「北宋の滅亡」を含む「徽宗」の記事については、「徽宗」の概要を参照ください。

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