北宋から明代
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搨模も手写であることには変わりなく、より効率的な方法として模刻が登場した。技法は唐時代後期から存在したが、南唐ではこの手法を用いて集帖『昇元帖』を作ったといわれる。これは南唐を征服した北宋へ受け継がれた。北宋代は書蹟の蒐集・鑑定が流行り、研究も盛んに行われた。朝廷においても太祖や太宗が書の蒐集を好み、模刻を用いて淳化3年(992年)、王羲之を中心とする集帖『淳化閣帖』全10巻を編纂した。この影響は大きく、模刻が法帖制作の主流となった。『淳化閣帖』は下賜品として極少数制作されたのみなので、これ自体の模刻が頻繁に行われた。また『淳化閣帖』を増補したり修正した法帖も編纂された。収集家がコレクションを模刻する法帖は北宋代末期から行われていたが、明代中期から清代に盛行し、商業出版まで行われた。王羲之などの古い時代の書ばかりではなく、南宋以降には同時代の書の法帖も制作された。明代末期には、董其昌のような有名人の書は生前に刻された例も多い。
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北宋から明代
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碑帖の制作が盛んとなったのは、北宋代へ入ってからのことである。宋代には書蹟の蒐集・鑑定、そして研究も盛行した。対象には金石文も含まれたため、碑や磨崖を研究する金石学が急速に台頭した。拓本の採取も盛んとなり、大量に碑帖が制作された。紙の書蹟においても法帖制作が集帖『淳化閣帖』の編纂により盛んになったのと時期を同じくした。現存の唐代以前の拓本・碑帖のほとんどはこの時代に一度は拓本を採られている。続く南宋代や明代においても碑帖制作は続き、この時代の碑帖を「宋拓」「明拓」と称する。こうして碑帖による碑版書蹟の伝承が定着した。
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