病死者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)
陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)を併せて陸軍の総患者284,526人、総病死者20,159人(うち脚気以外16,095人、79.8%)であった(軍夫を含む)。しばしば議論の的になった脚気については、患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清1,565人、台湾2,104人、内地253人)であった。なお脚気問題の詳細は、「陸軍での脚気大流行」を参照のこと。 当時の朝鮮半島は衛生状態が悪いこともあり、戦地で伝染病がはやった。とりわけ台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、近衛師団長の北白川宮能久親王陸軍中将がマラリアで陣没し、近衛第二旅団長山根信成陸軍少将も戦病死したほどであった。ただし、広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王陸軍大将が腸チフスを発症したなど、国内も安全ではなかった。戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人 (39.4%) がコレラによるものであった(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)。次いで消化器疾患1,906人 (14.4%)、脚気1,860人 (14.1%)、赤痢1,611人 (12.2%)、腸チフス1,125人 (8.5%)、マラリア542人 (4.1%)、凍傷88人 (0.7%)。 最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した。出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行したこともあり、その後、似島(広島)・彦島(下関)・桜島(大阪)の3ヶ所での検疫が徹底された(なお日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った)。
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