脚気惨害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人 (72.3%) が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。ちなみに、総病死者20,159人で、うち脚気以外の病死者が16,095人 (79.8%) であった(陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』)。その他の戦死者数には、戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)など、さまざまな数字がある。多数の病死者が出たように、衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病がはやり、また広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王が腸チフスを発症したり、出征部隊の凱旋によってコレラが大流行したりするなど、国内も安全とはいえなかった(日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ1895年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った)。特に台湾では、暑い季節にゲリラ戦に巻き込まれたため、伝染病が蔓延し、1895年(明治28年)10月28日、近衛師団長の北白川宮能久親王がマラリアで陣没し、山根信成近衛第二旅団長も戦病死したほどであった。なお、台湾での惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っている中、隠蔽したい出来事であった。 上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定を併せて41,431人(脚気以外を含む総患者284,526人。凍傷も少なくなかった)、脚気死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人)であった。このように陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥のトップ山縣有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。
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