日露戦争での陸軍脚気惨害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
「日本の脚気史」の記事における「日露戦争での陸軍脚気惨害」の解説
日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として輸送の制約が挙げられ、陸軍は兵員と兵器と弾薬などを送るのが精一杯で、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった(近代地上戦での想定補給量の一例)。さらに「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民憧れのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世情を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった。 しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増え始め、気温の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦飯が給与され、翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られ始めると、陸軍衛生部さらに大本営の野戦衛生長官で満州軍総兵站監部の総軍医部長、小池正直(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿が続いた。 陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計、陸軍一等軍医正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数999,868人のうち、戦死46.423人 (4.6%)、戦傷153,623人 (15.4%)、戦地入院251,185人 (25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異なる)。戦地入院のうち、脚気が110,751人 (44.1%) を占めており、在隊の脚気患者140,931人(概数)を併せると、戦地で25万人強の脚気患者が発生した(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率を見ると、歩兵1.88%、騎兵0.98%、砲兵1.46%、工兵1.96%、輜重兵1.83%、非戦闘員の補助輸卒5.32%であり、「軍夫」と呼ばれていた補助輸卒の数値が著しく高い(1904年(明治37年)2月〜翌年4月)。患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人に次いで30,559人と多く、過酷な条件の下任務に就いていた)。入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡したと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。
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