日露戦争と妓生制の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:36 UTC 版)
「日本の慰安婦」の記事における「日露戦争と妓生制の崩壊」の解説
1905年の日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった。1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった。同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した。日本人の居住地で知られる京城の新町、釜山の緑町、平壌の柳町、大田の春日町などには数十軒から数百軒を数える遊郭が設けられ、地方の小都市にも十数件の青桜が軒を連ねた。 日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、朝鮮の伝統的な売春業である妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。
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