日露戦争と第二次拓殖の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:55 UTC 版)
「郡司成忠」の記事における「日露戦争と第二次拓殖の終焉」の解説
会の中に不穏な空気が流れていた1904年(明治37年)5月、島へやってきた漁船に日露戦争が始まったことを知らされた郡司は義勇隊を組織し、カムチャツカ半島へ進撃した。郡司がこれを実行した理由については「会内の動揺や不満を逸らすため」「満州方面のロシア軍に対する陽動作戦」などと推測されている。義勇隊はカムチャツカ西岸のオゼルナヤ川河口近辺に上陸することには成功したが、7月になってコサック兵に襲われた。これによって義勇隊員に16人の死者が出た上、郡司は捕らえられ、ペトロパブロフスク・カムチャツキーの西にあるミルコフという村に監禁される。そして会長を監禁された報效義会は引き揚げを決定。この時点で占守島に居た70人のうち、郡司夫人を含む56人は島を離れた。こうして、第二次報效義会は実質上解散した。 なお、残った14人も順次島を離れていき、1908年(明治41年)には別所佐吉という会員とその妻子の計7人のみが島の住人という状態になった。
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