日露戦争と国体論
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1904年(明治37年)1月談判破裂して日露戦争始まった。当時としては日本未曾有の大戦争において、愛国の気勢が熾烈を加え、国体を擁護すべき所以が更に盛んに唱道される。たとえば同年6月に日比野寛が教育勅語の解説書として著した『日本臣道論』は、国体に関して次のように論じる。曰く、我ら臣民の忠孝は国体の精華である。国体とは何かというと、国が存在すれば必ず国体を伴い、国家統治の主宰力を掌握する人の数により国体が異なる。我が帝国は君主国体であり、天下の大権は唯一の聖天子が掌握し、万民は皇室を仰いで奉戴する。至忠は我ら臣民の本願であり、至誠は建国の太古より綿々として我が民族が独有するところである。皇室に献身的奉仕をし、忠勇無二であるのは世界史上に異彩を放つ美点である、と。 日露戦争の戦局が進んで日本が陸戦や海戦で連勝すると国民の意気が昂ぶり、戦勝の要因を探って国体の優秀に及ぶことが盛んになる。井上哲次郎は1904年(明治37年)12月付けで雑誌『日本人』に「日本が強大である原因」と題して、戦勝が国体と関係の深いことを説いて、(1)日本民族が皇室を中心として鞏固な統一を成していること、(2)日本民族が比較的純粋であること、(3)日本文明が今なお壮健であること、(4)一種の武士道が発達したこと、これは全く皇室を中心とする歴史的発達に淵源すること、(5)二千数百年の長い歴史を有すること、(6)宗教に冷淡であり迷信が極めて少ないこと、(7)世界文明の粋を集めてまとめあげつつあること、を列挙する。 日本軍が翌年3月に奉天を陥落させ、5月の日本海海戦に完勝すると、7月には加藤弘之が「吾が立憲的族父統治の政体」と題して講演する。曰く、同じ立憲君主国といっても、欧州諸国と我が国とは異なる。なぜならば、欧州諸国の君主は皆尋常の君主であるが、天皇はこれと違って日本民族の族父であるとともに君主でもあるからだ。我が国は建国以来一帝室が連綿と今日まで続き、しかもこれが日本民族の宗家である。多少は他民族も混合したが、今日は全く日本民族の血統に混じって別民族になっていない。このようにが国は建国から今日まで日本民族の族父たる天皇が君位を保つ国であるので、これを立憲的族父統治国(Die Konstitutionelle Patriarchatie)と称するのを最適とする、と。以上のような加藤の所論は、多くの国体論者が国体の尊厳であって強固な理由として第一に挙げる点である。 国体論は不可侵性を強め、20世紀初頭までにほぼ定着する。これに挑戦した北一輝『国体論及び純正社会主義』は発行禁止処分を受ける。 1907年(明治40年)8月、加藤弘之が『吾国体と基督教』を著す。これは、日露戦争当初から非戦を唱えたキリスト教徒に論戦を挑むものであり、かつて1889~1890年(明治22~23年)頃に国家主義者とキリスト教徒の間で行われた論争を再び引き起こしたものだが、主客の地位が逆転したところに時勢の変化がある。同書に次のように論じる(大意)。 宗教なるものが全て迷信であることは今さら論じるまでもない。 キリスト教も仏教も世界教であって民族教ではないから国家に害がある。人民が世界教を信じれば国家の支配を受ける以外に世界教の支配も受ける。国家は有機体であるから、その分子である国民は万事を国家のために行動すべきなのに、世界教の信者が国家のために身を犠牲にすることはあり得ない。つまり国家主義と合わない。 我が国体は、大父である帝室が万世に統治の大権を掌握して臣民を撫育し、族子である我ら臣民が統治を受けて臣子としての道を尽くすというに過ぎない。これは世界唯一の国体である。皇祖皇祖と大功臣を神として崇拝するのは祖先崇拝である。 仏教が輸入されて神より尊い仏を持ち出したので、国体が滅びてしまうと当時の廃仏論者は嘆いた。仏教が隆盛になると国体を汚すことが少なくなかった。天皇が三宝(仏・法・僧)の奴と称したこと、本地垂迹説を設けて神を仏の後身としたことなどが顕著な例である。ただ仏教は多少日本に同化した。 キリスト教は唯一真神なるものを立て、それ以外の崇拝物を全て偶像として排斥する。これが日本の国体と矛盾するのは明らかである。至尊として崇拝すべき天皇の上に唯一真神を戴くなどということは決して国体の許すところではない。以上。 以上のようにキリスト教を排撃する加藤弘之に対し、世論は喧々諤々となり、なかでもキリスト教徒は弁難に努めた。 海老名弾正(プロテスタント牧師)曰く、科学主義を称する加藤氏の説が全く我が国体と一致するとは考えられない。御先祖(皇祖)が神として高千穂に天降りしたという事と進化論は矛盾する。加藤氏は進化論者でありながら人君が下等生物の後裔であることに言及しないが、大いに困惑しているに違いない。神こそは人間以上であるから、神に仕える道と君主に仕える道は全く異なる。君主が神の命令に反するならば、断然君主に背いて神に従うべきである、と。 山路愛山(メソジスト派機関紙主筆経験者)いわく、古代より儒教・仏教が我が国に入って来て結局は我が国に利益となった。近来のキリスト教も同様の結果になるだろう。国体が生命であるならば、宗教は衣服のようなものであり、身体の成長にしたがって衣服を様々に変えなくてはならない。国の生命さえ盛んであれば外教が輸入されても憂う必要はない。かえって国の利益となるだろう。古来仏教・キリスト教について随分と反対論があっても我が国体が益々盛大になって存在しているのを見ても明らかである、と。 石川喜三郎(ロシア正教会神学者)曰く、加藤氏は我が皇帝の上に唯一真神を置いて尊崇するのは我が国体に有害であると論じるが、およそ尊崇すべきものは世の中に様々であり、必ずしも上下をいうべきものではない。唯一真神は宗教上においてこそ人格的のように説くが、学理的にいえば唯一実在、実体などと称するものであって、このような非人格的なものを尊崇することが国体に有害であるならば、たとえば科学法則を尊崇することも不都合でないのか。 小山東助(キリスト教に傾倒する思想家)曰く、国家進化論と題し、日露戦争の大勝利によって国体論が健全な発展を失って無謀な国体論と化してしまった。我が国体の進化は外国の開化も採ることに起因したものなので、外国から世界教を輸入しても国体を憂う道理はない、と。 浮田和民(熊本バンド)曰く、聖書全般を通じて国体に矛盾する論は少しも無い。加藤氏はキリスト教が国体に大害あると主張するが、キリスト教より儒教のほうが有害である。儒教は堯舜の禅譲(平和的な王朝交替)を理想とするからである。孟子の民主的傾向が最も有害である。古代において我が国体に合わない儒道や仏動が輸入されたのは、つまるところ我が固有文明だけでは間に合わないからである。我が国には古来祖先崇拝があり、中世以来武士道も盛んになったが、これだけでは足りない。今日の日本の国体は族父統治の時代を過ぎ去っている。台湾人もいればアイヌ人もいるし、さらに朝鮮人も満洲人も日本人になるかもしれない。ならば今日に族父統治論を唱えるのは不都合である、と。 亀谷聖馨(仏教学者)曰く、仏教が輸入されてから皇室は仏教を重んじ、特に聖武天皇は仏教を廃す時は皇統も廃すぞと宣ったように、国体と仏教の関係は重大であった。伝教大師(最澄)も王城鎮護を標榜して天台宗を開き、その他にも王法為本を教理とし立正安国を眼目とした。こうして仏教は皇室の信仰を得て国体擁護に尽くした、と。 井上哲次郎曰く、加藤氏の国体論はあまりに窮屈である。我が国体は神武天皇の時に定まって以降も徐々に進歩発展してきた。国体の形式は一定不変であるが、その内容は複雑な変化を経た。これにより仏教を同化させたのだから、キリスト教を同化させることも出来るはずだ、と。 以上のように加藤弘之の『吾国体と基督教』はキリスト教側だけでなく仏教側その他にも反駁された。内務省神社局 (1921) によれば、加藤弘之は国体を擁護するためにキリスト教を攻撃したというよりも、キリスト教を排斥するために国体論を利用した疑いがある。このため、その論を第三者から見ると、国体に権威を加えず、逆に国体に煩累を及ぼした感じがあるという。 1908年(明治41年)佐藤鉄太郎(海軍軍人)が『帝国国防史論』を著す。同書で国体に論及して曰く「世人あるいは御国体を家族的観念の向上となし、これをシナ思想と同一視する者あり。その根底の不確実にして、しかも浅薄なるは吾輩の嗤うところなり。我が国体は決して家族主義の変化にあらずして、絶対位を中心として確立したる神来の理想的国体なり」と。 1909年(明治42年)5月、佐々木高行(元参議工部卿、侯爵)が國學院雑誌において「国体の淵源」と題して、国民が権威を認めるところを国体と見るべしと論じる。
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