日露国境の画定
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1853年 - ロシアが、北樺太北端鵞小門(ガオド)岬(エリザベス岬)に露国旗を掲げ、領有を宣言。 1854年 - 日露和親条約締結、北海道が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる。ただし、樺太方面の国境はこれまでどおり未確定とすると決められた。 1855年 - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が陣屋を築き警固を行った。 1856年 - 幕府、樺太東岸の中知床岬以北および西岸のノタサン以北を樺太直捌場所とした。 1858年 - 幕府は大野藩主土井利忠に北蝦夷地警備と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ場所)。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。 1862年 - 安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、シスカに漁場(ぎょば)を開設。 1865年 - 岡本監輔が、樺太最北端鵞小門岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。 1867年 - 日露間樺太島仮規則調印。樺太全域が日露雑居とされる。 1868年 - 明治維新。 1869年 - 戊辰戦争、箱館戦争で終了。同年、開拓使設置。蝦夷地及び北蝦夷地をそれぞれ北海道及び樺太と改称、本格的な開拓が始まる。 1871年 - 戸籍法制定(編製は翌年)。アイヌは「平民」に編入。アイヌの開墾者に家屋・農具を与え、独自の風習を禁じ、日本語教育を含めた同化政策を始める。 1870年2月13日、樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹(樺太大泊郡大泊町楠渓)に開設される。 1871年8月7日、樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。 1872年 - 開拓使、北海道土地売貸規則・地所規則を公布。 1874年 - 屯田兵例則、制定。 1875年 -屯田兵、札幌郊外の琴似兵村に入地。本格的な屯田兵の北海道入植が始まる。 ロシアと樺太・千島交換条約締結。日露住民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領、千島列島全域を日本領とする。これに伴い、日本国籍を選択した樺太アイヌ108戸841名を宗谷に、翌年対雁に移住させる。 アイヌの人口1万7084人(人口調査結果)。 1876年 - 場所請負制(魚場持)廃止。鹿猟規則によりアイヌの伝統的猟法(仕掛け弓矢)が禁止になり、代わって猟銃が貸与される。 1877年 - 北海道地券発行条例公布(アイヌ居住地を官有地第三種に編入) 1878年 - 開拓使、アイヌの呼称を「旧土人」で統一。札幌郡内諸川での鮭漁を全面禁止に。 1882年 - 1月現在アイヌの人口、3763戸・1万6933人。 1884年 - 北千島アイヌ全97名が色丹島に移住。 1886年 - 北海道庁設置。北海道土地払下規則公布。 1889年 - 北海道庁、アイヌの食料分として許されていた鹿猟を禁止。 1894年 - 北海道庁、近文に、アイヌへの付与予定地を確保。以降、第七師団設置に伴う移転命令や反対運動が起きる。 1897年 - 北海道国有未開地処分法公布。150〜250万坪の土地が無償貸与される。 1899年 - 北海道旧土人保護法。 1901年 - 旧土人児童教育規程公布。日本人児童と区別する簡易教育が行われる。 1905年 - 日露戦争に日本が勝利。ポーツマス条約によって樺太の南半分が日本領となり、1875年北海道に移住した樺太アイヌのうち336人が故郷に戻った。 1916年 - 新冠村のアイヌ80戸が御料牧場の都合で強制移転。 1930年 - 北海道アイヌ協会設立 1931年 - 札幌市で全道アイヌ青年大会が開かれる。その様子は貝澤藤蔵『アイヌの叫び』に記録として残された。 1932年 - 4月12日、旭川市アイヌ近文部落代表は開墾地削減反対・旧土人保護法撤廃を陳情。1934年3月23日、旭川市旧土人保護地処分法公布。 1937年 - 日中戦争始まる。 1941年 - 真珠湾攻撃。太平洋戦争、始まる。 1945年 - ソビエト連邦が日本に宣戦布告。ソビエト連邦は樺太・千島を占領する。
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