日露の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 19:26 UTC 版)
「日露戦争」も参照 帝政ロシアは、その冒険主義的な新方針により英・米・独・日を敵に回すこととなった。韓国政府は龍川郡守にロシア人の退去を命じ、ロシア公使に抗議文を送ったものの、1903年7月20日、韓国はロシアと龍岩浦租借条約を締結することとなった。 この韓露間の龍岩浦租借条約に対し日本は、「(1896年の)森林合同契約は一民間企業に対して権利を与えたものであって、ロシア政府自ら経営するのは契約外であり、韓国の主権を侵害するものであったため、これを是認するのは韓国政府にとって甚しい不利を来す」「龍岩浦をロシア人専用の開港場および居留地にすれば、他国人は均霑の利益を得られない(ため、各国との通商条約内にある最恵国待遇の規定に反する)」「龍岩浦において外国人を露国会社の裁判に附するのは、各国との通商条約の規定に反する」として韓国政府に対し条約の即時破棄を要請した。 1904年2月、日露戦争が勃発し、同月、日韓間で日韓議定書が結ばれた。同年3月23日、龍岩浦港が開港した。同年5月、韓国政府は韓露条約を破棄し、同時に豆満江・鴨緑江・鬱陵島の森林伐採の特許権の破棄を声明した。
※この「日露の対立」の解説は、「龍岩浦事件」の解説の一部です。
「日露の対立」を含む「龍岩浦事件」の記事については、「龍岩浦事件」の概要を参照ください。
- 日露の対立のページへのリンク