日露修好通商条約の締結とは? わかりやすく解説

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日露修好通商条約の締結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 07:40 UTC 版)

日露関係史」の記事における「日露修好通商条約の締結」の解説

1853年アメリカ合衆国マシュー・ペリー提督浦賀来航黒船来航)に続くようにロシア使節エヴフィミー・プチャーチンが3隻からなる艦隊率いて長崎来航1853年にニコライ・ブッセ(ロシア語版)が樺太占領したが、同年3月クリミア戦争勃発受けて撤退した1855年2月プチャーチンは、伊豆半島下田困難な交渉の末、日露和親条約(Симодский трактат、下田条約)を締結した19世紀半ばに入ると、ロシア農奴解放1861年)を求め国内改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下試み挫折受けて、再び極東へ進出重視してきた。さらにプチャーチンは間をおいて再び長崎来航し1858年日露修好通商条約(Едоський договор、江戸条約)を結んだ。これにより、下田箱館長崎の3港が開かれるとともに千島列島択捉島得撫島の間に両国国境定められた。 1861年ロシア対馬崎を数ヶ月占領して永久租借要求したが、イギリスの介入によって退去した(ロシア軍艦対馬占領事件)。

※この「日露修好通商条約の締結」の解説は、「日露関係史」の解説の一部です。
「日露修好通商条約の締結」を含む「日露関係史」の記事については、「日露関係史」の概要を参照ください。

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