日露修好通商条約の締結
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「日露関係史」の記事における「日露修好通商条約の締結」の解説
1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督の浦賀来航(黒船来航)に続くようにロシア使節エヴフィミー・プチャーチンが3隻からなる艦隊を率いて長崎に来航。1853年にニコライ・ブッセ(ロシア語版)が樺太を占領したが、同年3月のクリミア戦争勃発を受けて撤退した。1855年2月にプチャーチンは、伊豆半島の下田で困難な交渉の末、日露和親条約(Симодский трактат、下田条約)を締結した。 19世紀半ばに入ると、ロシアは農奴解放(1861年)を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、再び極東への進出を重視してきた。さらにプチャーチンは間をおいて再び長崎に来航し1858年に日露修好通商条約(Едоський договор、江戸条約)を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれるとともに千島列島の択捉島と得撫島の間に両国の国境が定められた。 1861年にロシアは対馬の芋崎を数ヶ月占領して永久租借を要求したが、イギリスの介入によって退去した(ロシア軍艦対馬占領事件)。
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