極東へ
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「ポサードニク (コルベット)」の記事における「極東へ」の解説
完成したポサードニクは、極東方面の探索に派遣された。1859年には、ポサードニクはN・A・ビリリョフ中尉の指揮の下、クリッパー・ラズボーイニクとナエーズニクからなる艦隊を率いて、N・M・チハチョーフ指揮下のフリゲート・スヴェトラーナとともに太平洋に到着した。ビリュリョーフはクリミア戦争におけるセヴァストーポリ防衛の英雄であり、4等聖ゲオールギイ勲章はじめ数々の勲章を保有する指揮官であった。 この頃、イギリスが対馬に利用できる港を設置することを日本の江戸幕府に対して要求していたが、それまで日本との開国交渉に失敗していたロシアも対馬に目をつけた。ロシア海軍中国海域艦隊司令官であったI・V・リハチョーフ大佐は自身の艦隊のための不凍港を確保するため、対馬海峡に根拠地を築くことを提案した。日本との関係がそれまで以上に悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶したが、海事省大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチ(皇帝ニコライ1世と皇后アレクサンドラの次男)は、個人的な影響力で以ってリハチョーフが対馬へ艦隊を派遣し、現地の「公」と個人協議の上ロシアのための根拠地を借りることを許可した。
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極東へ
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「エクスプレス (駆逐艦)」の記事における「極東へ」の解説
1941年9月、「エクスプレス」は艦隊駆逐艦として任務に復帰した。 10月、「エクスプレス」は姉妹艦「エレクトラ」と共に極東に向かう戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の護衛を命令された。そこで艦艇は日本の侵略の阻止を意図し、新しい東洋艦隊の核を形成することとなった。 11月2日、3隻の艦艇はフリータウンに入港した。一行は11月16日にケープタウンに到着し、駆逐艦はシモンズタウン海軍基地に入港した。一行は11月18日にケープタウンを出港、セイロン島のコロンボへ11月28日に到着、道中ではモーリシャスとアッドゥ環礁に燃料補給のため停泊した。 11月29日、コロンボにて地中海艦隊から来た駆逐艦「エンカウンター」および「ジュピター」と合流し、5隻の艦艇はこの日の午後に出航した。海上で、一行はトリンコマリーから出航してきた巡洋戦艦「レパルス」と合流した。艦隊は航路をシンガポールへ定め、12月2日に到着した。
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