極東、1862–1863年
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「ワイオミング (戦闘スループ)」の記事における「極東、1862–1863年」の解説
サンフランシスコ北方のメア・アイランド海軍造船所で修理を完了した後、ワイオミングは新たな命令を受領した。1862年6月16日付けの命令書は、直ちに極東に向かい、南軍艦艇による私掠行為を阻止するように指示していた。 北軍の戦闘艦が極東水域に到着したことは、すぐに知れ渡った。南軍の戦闘スループ・アラバマの艦長セメス(Raphael Semmes)大佐は、ジャワ島沖のスンダ海峡で、英国のブリッグからワイオミングの到着を知り、オランダの貿易商からの情報でもそれは確認された。10月26日、セメスは自身の日記に自信たっぷりにこう記している。「ワイオミングとは良い勝負になるだろう。戦闘によって問題を解決するつもりだ。ワイオミングは帆走で航行しているそうだ-おそらくは石炭庫は満杯だろう。クラカタウの前に連夜停泊していることは疑いない。満月前には奇襲をかけることができるだろう」 両艦はお互いに索敵を続けたが、結局ワイオミングとアラバマは相まみえることは無かった。アラバマの撃沈はできなかったものの、ワイオミングは翌1863年にも極東の海に星条旗を掲げることによって、合衆国の名誉を保った。なお、アラバマは1864年6月19日、北軍の戦闘スループ・キアサージ(USS Kearsarge)によってフランス沖で撃沈された。 1863年春にはフィラデルフィアに帰還するように命令を受けたが、東インド艦隊を離れる準備をしている最中に事件が発生し、ワイオミングの予定は変更された。
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