極東での紛争とは? わかりやすく解説

極東での紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:07 UTC 版)

セルゲイ・ウィッテ」の記事における「極東での紛争」の解説

義和団事件」および「満洲還付条約」も参照ウィッテ回想記によれば1900年清国義和団の乱北清事変)が起こったとき、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣は、その知らせ聞くや膝をたたいて喜んだという。しかしウィッテはこれを憂慮しロシア武力行使及ばないよう皇帝進言したものの、皇帝はまたもウィッテ意見取り上げず軍部意見採用した帝政ロシア結局7月3日黒竜江に臨むロシアブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件口実戦闘開始した(露清戦争)。ロシア軍は、8月3日ハルビン制圧したのを皮切りに10月2日には奉天制圧し、ほぼ満洲全土占領したこの間ムラヴィヨフ外相死去し新任外相にはウラジーミル・ラムスドルフ就任したウィッテは、ロシアにあっては満洲あからさまに領有することよりも、鉄道敷設によって経済的利益あげようとする勢力代表していた。彼は、現地でつづく露清間交渉割り込んでロシア部隊鉄道警備目的残留させるという条件をつけるのに成功した日本国内では、今後ロシアに対してどのような行動をとったらよいか、真剣な討論交わされ維新世代伊藤博文井上馨日露協商論に立っていたのに対し第二世代桂太郎小村寿太郎らは日英同盟論に立っていた。日英提携模索されるなか、伊藤1901年9月日露提携可能性さぐってサンクトペテルブルクへ向かった伊藤は、満韓交換交渉眼目として対露交渉つづけたが、ウィッテ以外のロシア首脳はみな強気な姿勢保ったため難航した伊藤意見に、ロシアで最も好意的な反応示したのはウィッテであったウィッテはこのとき、次のように述べて伊藤提案受け容れるよう説いていた。 韓国放棄すれば、われわれは日本との常な誤解の素を取り去り、いつも攻撃で脅かす敵を、同盟国とはいわないでも、このように苦労して得た土地を再び失わないよう、われわれとの友好関係維持しようとする隣国変えることができようロシアと、目下のところ、われわれにとって海から近寄りがたい日本との間には、新し陸上国境ができるだろう。この国境からわれわれは常に日本脅かし将来鉄道の建設十分に完成しわが国北中国における影響力確立したときには状況許せば、再び韓国支配することすら考えられよう。 ウィッテは、ロシア海軍最初からあまり当てにしておらず、仮に日本韓国譲ったとしても、ロシア鉄道通じて満洲での地歩を固めえすれば将来的ロシア不利になることはないと考えていたのである。しかし、ウィッテ意見ロシア上層部には受け容れられず、彼の和解提案見送られたのと入れ違い日英同盟交渉急速に実現向かっていった。 1902年1月日本イギリスロシアへ対抗手段として日英同盟結んだ。その報せ聞いたウラジーミル・ラムスドルフ外相少なからず動揺をみせたといわれる日英同盟対すロシア最初反応は、同年3月フランスとの共同声明であった。それは、日英同盟条約含まれる極東における現状維持清韓両国独立保持に、ロシアフランス賛成の意を表明するというものだったロシアとしては、日英同盟締結契機として極東露仏同盟敵対的な国際的枠組み生まれることを強く警戒したのであるロシア一方で清国との交渉進め同年4月満洲還付条約結んで3段階に分けてロシア軍満洲から撤兵させることを約束した。しかし、第2次撤兵以降約束果たされず、そのため日本イギリスとの関係きわめて悪化したウィッテ自身は、清国におけるロシア利権獲得鉄道利権に限るべきとする見解つねづね表明しそれ以上領土・権益を求めることには反対してきたが、満洲撤退条約規定そのもの満洲政策挫折受け止められていた。そして、ウィッテこそロシア極東政策推進者であるという認識ロシア国内では抜きがたく定まっていたため、彼の国内での地位もまた大い揺らいだのである陸軍大臣クロパトキンはもともと、ロシア勢力圏保障されるまではロシア軍満洲駐留継続すべきであるという意見であり、その点ではウィッテラムスドルフ外相とは対立していた。強硬派による満洲撤兵反対論きわめて強固であり、ウィッテラムスドルフ結局北満洲占領継続やむをえないという見解落ち着くほかなかった。 一方ウィッテラムスドルフクロパトキンの3大臣日本刺激しなければ戦争回避できるという考えでは一致していた。このときウィッテ最優先考えたのは、門戸開放唱えてロシア満洲占有厳しく批判するアメリカ日英同盟陣営加わらないことであった。なお、ウィッテは、1902年夏、サンクトペテルブルク訪問した元老松方正義会談しており、日露関係改善について協議している。クロパトキン日本軍との対決極力避けるべきという考えに立つようになり、1903年訪日時には桂太郎首相らと会談した

※この「極東での紛争」の解説は、「セルゲイ・ウィッテ」の解説の一部です。
「極東での紛争」を含む「セルゲイ・ウィッテ」の記事については、「セルゲイ・ウィッテ」の概要を参照ください。

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