極東での紛争
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「義和団事件」および「満洲還付条約」も参照 『ウィッテ伯回想記』によれば、1900年、清国で義和団の乱(北清事変)が起こったとき、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣は、その知らせを聞くや膝をたたいて喜んだという。しかしウィッテはこれを憂慮し、ロシアが武力行使に及ばないよう皇帝に進言したものの、皇帝はまたもウィッテの意見を取り上げず、軍部の意見を採用した。帝政ロシアは結局、7月3日、黒竜江に臨むロシア領ブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件を口実に戦闘を開始した(露清戦争)。ロシア軍は、8月3日にハルビンを制圧したのを皮切りに10月2日には奉天を制圧し、ほぼ満洲全土を占領した。この間、ムラヴィヨフ外相が死去し、新任の外相にはウラジーミル・ラムスドルフが就任した。ウィッテは、ロシアにあっては、満洲をあからさまに領有することよりも、鉄道敷設によって経済的利益をあげようとする勢力を代表していた。彼は、現地でつづく露清間の交渉に割り込んでロシア部隊を鉄道警備の目的で残留させるという条件をつけるのに成功した。 日本国内では、今後ロシアに対してどのような行動をとったらよいか、真剣な討論が交わされ、維新世代の伊藤博文や井上馨が日露協商論に立っていたのに対し、第二世代の桂太郎や小村寿太郎らは日英同盟論に立っていた。日英提携が模索されるなか、伊藤は1901年9月、日露提携の可能性をさぐってサンクトペテルブルクへ向かった。伊藤は、満韓交換交渉を眼目として対露交渉をつづけたが、ウィッテ以外のロシア側首脳はみな強気な姿勢を保ったため難航した。伊藤の意見に、ロシアで最も好意的な反応を示したのはウィッテであった。ウィッテはこのとき、次のように述べて伊藤の提案を受け容れるよう説いていた。 韓国を放棄すれば、われわれは日本との常なる誤解の素を取り去り、いつも攻撃で脅かす敵を、同盟国とはいわないまでも、このように苦労して得た土地を再び失わないよう、われわれとの友好関係を維持しようとする隣国に変えることができよう。ロシアと、目下のところ、われわれにとって海から近寄りがたい日本との間には、新しい陸上の国境ができるだろう。この国境からわれわれは常に日本を脅かし、将来、鉄道の建設が十分に完成し、わが国の北中国における影響力が確立したときには、状況が許せば、再び韓国を支配することすら考えられよう。 ウィッテは、ロシア海軍を最初からあまり当てにしておらず、仮に日本に韓国を譲ったとしても、ロシアが鉄道を通じて満洲での地歩を固めさえすれば、将来的にロシアに不利になることはないと考えていたのである。しかし、ウィッテの意見はロシア上層部には受け容れられず、彼の和解提案が見送られたのと入れ違いに日英同盟交渉は急速に実現に向かっていった。 1902年1月、日本とイギリスはロシアへの対抗手段として日英同盟を結んだ。その報せを聞いたウラジーミル・ラムスドルフ外相は少なからず動揺をみせたといわれる。日英同盟に対するロシアの最初の反応は、同年3月のフランスとの共同声明であった。それは、日英同盟条約に含まれる、極東における現状維持と清韓両国の独立の保持に、ロシアもフランスも賛成の意を表明するというものだった。ロシアとしては、日英同盟の締結を契機として極東に露仏同盟に敵対的な国際的枠組みが生まれることを強く警戒したのである。ロシアは一方で清国との交渉を進め、同年4月に満洲還付条約を結んで3段階に分けてロシア軍を満洲から撤兵させることを約束した。しかし、第2次撤兵以降の約束は果たされず、そのため日本やイギリスとの関係はきわめて悪化した。ウィッテ自身は、清国におけるロシアの利権獲得は鉄道利権に限るべきとする見解をつねづね表明し、それ以上の領土・権益を求めることには反対してきたが、満洲撤退条約の規定そのものが満洲政策の挫折と受け止められていた。そして、ウィッテこそロシア極東政策の推進者であるという認識がロシア国内では抜きがたく定まっていたため、彼の国内での地位もまた大いに揺らいだのである。 陸軍大臣のクロパトキンはもともと、ロシアの勢力圏が保障されるまではロシア軍の満洲駐留を継続すべきであるという意見であり、その点ではウィッテやラムスドルフ外相とは対立していた。強硬派による満洲撤兵反対論はきわめて強固であり、ウィッテもラムスドルフも結局、北満洲の占領継続はやむをえないという見解に落ち着くほかなかった。 一方、ウィッテ、ラムスドルフ、クロパトキンの3大臣は日本を刺激しなければ戦争は回避できるという考えでは一致していた。このときウィッテが最優先と考えたのは、門戸開放を唱えてロシアの満洲占有を厳しく批判するアメリカが日英同盟の陣営に加わらないことであった。なお、ウィッテは、1902年夏、サンクトペテルブルクを訪問した元老の松方正義と会談しており、日露関係改善について協議している。クロパトキンも日本軍との対決は極力避けるべきという考えに立つようになり、1903年の訪日時には桂太郎首相らと会談した。
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