極東への航海とは? わかりやすく解説

極東への航海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 18:07 UTC 版)

パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「極東への航海」の解説

1890年8月23日「パーミャチ・アゾーヴァ」処女航海旅立った。まもなくヨーロッパ迂回しセヴァストーポリへ向かわねばならなかった。そこにおいて、艦は皇太子迎えアジア回って極東へ向かうことになっていた。航海最初において、艦は強い嵐に見舞われた。艦長ロメン 1 等佐官は、「総じてフリゲート頑丈満載状態で良好な航洋性を持っていたが、それでもやはり大洋の波を突破するには不足であった」と記している。 ところがロシア巡洋艦ボスポラス海峡抜けて黒海へ入るのをオスマン帝国拒んだため、9月28日から10月16日にかけての日程予定され黒海航海中止された。ウィーンからトリエステ赴いた皇太子は、10月19日トリエステ港において「パーミャチ・アゾーヴァ」乗艦した。 「パーミャチ・アゾーヴァ」ピレウス寄港し、艦にはギリシャ王ゲオルギオス1世とその妻オリガ訪問したニコライ皇太子は、代母であるギリシャ王オリガとの再会果たしたまた、ここで「パーミャチ・アゾーヴァ」乗員ギリシャ王ゲオルギオス加わった地中海では、「パーミャチ・アゾーヴァ」護衛巡洋艦「ヴラジーミル・モノマフ」が合流しギリシャ海域における通報艦の任に当たっていた砲艦ザポロージェツ」も臨時艦隊加わった。「ザポロージェツ」は、巡洋艦スエズ運河に入るまで艦隊構成した巡洋艦スエズ運河通過し巡洋艦セイロン島目指した。 10月中に巡洋艦ボンベイ投錨し皇太子らは上陸した。そこで、42 日間休暇を過ごすことになっていた。その間に、皇太子ニコライの弟で「パーミャチ・アゾーヴァ」海軍少尉として乗り組んでいたゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公結核発病した1891年1月23日ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公巡洋艦コルニーロフ提督」に移動し本国への帰途就いた1月31日「パーミャチ・アゾーヴァ」皇太子乗せてセイロン島戻ったその後「パーミャチ・アゾーヴァ」2月18日シンガポール入港した。そこで当時東洋一砲塔装甲巡洋艦であったナヒーモフ提督」が砲艦「マンジュール」および「コレーエツ」を引き連れて合流し2月19日には「ナヒーモフ提督」から司令官 P・N・ナジーモフ(ロシア語版海軍中将「パーミャチ・アゾーヴァ」移乗した。 5 隻に増えた艦隊2月23日バタヴィア3月7日バンコク3月15日サイゴン立ち寄ったシャムでは、将校らに勲章降り注いでいる。その後3月23日香港3月29日上海入港した皇太子蒸気船ウラジオストク」に移乗し中国敢行赴いた。2 隻の砲艦がこれを護衛し「パーミャチ・アゾーヴァ」はほかの 2 隻の巡洋艦とともに長崎目指した。 1891年4月5日には、「パーミャチ・アゾーヴァ」と 2 隻の巡洋艦長崎港入港した。この月のうちに、長崎港にはほとんどすべてのロシア極東艦隊集結した。すなわち、「パーミャチ・アゾーヴァ」、「ヴラジーミル・モノマフ」、「ナヒーモフ提督」、「マンジュール」、「コレーエツ」、「ボーブル」、クリッパー「ジギート」、それに義勇艦隊蒸気船ペテルブルク」、「ウラジーミル」、「バイカール」である。 4月16日には皇太子中国観光から「パーミャチ・アゾーヴァ」戻ったが、復活大祭のため公式行事控えられた。そのため艦隊長期わたって長崎停泊余儀なくされたが、その間皇太子身分隠してお忍び近在回り一方日本人頻繁にお召し「パーミャチ・アゾーヴァ」訪れたまた、彼らは「地元特産品」を好意の印としてお召し艦へ持ち込んだその後皇太子鹿児島へ赴き、旧薩摩藩島津忠義親交深めたニコライ鹿児島での歓待感激し、父アレクサンドル3世は翌1892年忠義に対し忠義にアレクサンドル・ネフスキー勲章および白大綬章ロシア語版)を授与する」と記した勲記送っている。訪日日程は非常に順調で、日本人ロシア皇太子訪日きわめて好意的に歓迎したので、その後起こった大津事件はまさに「青天の霹靂であった皇太子一行乗せた「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア艦隊4月27日神戸港入り皇太子はそこから汽車京都向かった街頭ロシアギリシャ日本の国旗飾られ人々歓迎拍手喝采送った4月29日には有栖川宮威仁親王らを伴って琵琶湖観光行い滋賀県庁での昼食ののち、京都向かった。その途上ニコライ皇太子警備警官切りつけられ、負傷した4月30日深夜には明治天皇京都到着し、翌5月1日ニコライ皇太子見舞った。この日、皇太子天皇見送り受けて旗艦「パーミャチ・アゾーヴァ」戻り旗艦上で艦隊および司令部の全士官整列して歳を連呼し、皇太子歓迎するとともに天皇一行厚意に対して謝意表したお詫びの意味もあり、天皇からロシア士官らへ各等級旭日章などが授与された。艦隊指揮した侍従武官 V・G・バサルギーン(ロシア語版海軍少将P・N・ナジーモフ海軍中将には勲一等旭日大綬章が、「パーミャチ・アゾーヴァ」艦長 N・Nロメン 1 等佐官、「ヴラジーミル・モノマフ」艦長 F・V・ドゥバーソフ(ロシア語版1 等佐官、「ナヒーモフ提督艦長 A・Vフェドートフ 1 等佐官にはそれぞれ勲二等旭日重光章が、「パーミャチ・アゾーヴァ」士官O・A・エンクヴィスト(ロシア語版)、「ヴラジーミル・モノマフ」士官G・F・ツィフヴィーンスキイ、「ナヒーモフ提督士官A・R・ロジオーノフには勲三等瑞宝章授与され、ツィフヴィーンスキイにはさらに勲四等旭日小綬章授章した。 その後ニコライ皇太子旗艦視察して過ごしたが、5月4日皇帝アレクサンドル3世からウラジオストク直行するよう下命されたので、5月7日には出航することとなった。これにより天皇招きに応じて東京へ向かうことはできなくなりかわりに天皇神戸埠頭皇室東屋朝食催したい旨、打診した怪我具合診た医師禁止により皇太子上陸許されなかったので、最終的に天皇一行「パーミャチ・アゾーヴァ」招待することになった5月6日にはニコライ23 歳誕生日迎えたが、大阪商人らが 3 隻の船に贈り物積んで「パーミャチ・アゾーヴァ」訪問し代表団表敬受けた旗艦には贈り物山積みになったニコライは、日本国民の素誠意の籠もった対応に感激している。この日、艦隊では電飾点したカッターボートによるレース開催されている。 出発の日となる5月7日午後零時半、天皇一行「パーミャチ・アゾーヴァ」訪問した朝食会至って打ち解けた雰囲気終了したその後夕方5時に「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア艦隊出港し瀬戸内海抜けて日本を後にした。 日本発った一行は、最終目的地であるウラジオストク向かった5月11日に「ナヒーモフ提督」と「ヴラジーミル・モノマフ」がウラジオストク到着し5月16日には皇太子乗せた「パーミャチ・アゾーヴァ」砲艦伴ってウラジオストク入港した5月18日には、横浜から出発したクリッパー「ジギート」がウラジオストク帰港した5月19日には、ニコライ皇太子シベリア鉄道起工式出席したその後ウラジオストクでは、皇帝旗を掲げたフリゲート「パーミャチ・アゾーヴァ」以下、バルト艦隊所属装甲巡洋艦ナヒーモフ提督」、装甲フリゲートウラジーミル・、モノマフ」、クリッパー「ジギート」が勢揃いしシベリア小艦隊ロシア語版所属砲艦コレーエツ」、「シヴーチ」、「マンジュール」、「ボーブル」もこれに加わった5月21日ウラジオストクにおいて皇太子最終的に下艦した。また、病を得ロメン 1 等佐官艦長降りてS・Fバウエル 1 等佐官交替したロメン 1 等佐官は、ゲオルギオス王子とともに砲艦コレーエツ」で横浜向かった一方皇帝アレクサンドル3世航海成功祝してファベルジェ社に対し、艦のミニチュア内包し2 つの卵の制作命じた

※この「極東への航海」の解説は、「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の解説の一部です。
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