極東への航海
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「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「極東への航海」の解説
1890年8月23日、「パーミャチ・アゾーヴァ」は処女航海に旅立った。まもなくヨーロッパを迂回し、セヴァストーポリへ向かわねばならなかった。そこにおいて、艦は皇太子を迎え、アジアを回って極東へ向かうことになっていた。航海の最初において、艦は強い嵐に見舞われた。艦長のロメン 1 等佐官は、「総じてフリゲートは頑丈で満載状態で良好な航洋性を持っていたが、それでもやはり大洋の波を突破するには不足であった」と記している。 ところがロシアの巡洋艦がボスポラス海峡を抜けて黒海へ入るのをオスマン帝国が拒んだため、9月28日から10月16日にかけての日程で予定された黒海航海は中止された。ウィーンからトリエステへ赴いた皇太子は、10月19日にトリエステ港において「パーミャチ・アゾーヴァ」に乗艦した。 「パーミャチ・アゾーヴァ」はピレウスに寄港し、艦にはギリシャ王ゲオルギオス1世とその妻オリガが訪問した。ニコライ皇太子は、代母であるギリシャ王妃オリガとの再会を果たした。また、ここで「パーミャチ・アゾーヴァ」の乗員にギリシャ王子ゲオルギオスが加わった。地中海では、「パーミャチ・アゾーヴァ」に護衛の巡洋艦「ヴラジーミル・モノマフ」が合流し、ギリシャ海域における通報艦の任に当たっていた砲艦「ザポロージェツ」も臨時で艦隊に加わった。「ザポロージェツ」は、巡洋艦がスエズ運河に入るまで艦隊を構成した。巡洋艦はスエズ運河を通過し、巡洋艦はセイロン島を目指した。 10月中に巡洋艦はボンベイに投錨し、皇太子らは上陸した。そこで、42 日間の休暇を過ごすことになっていた。その間に、皇太子ニコライの弟で「パーミャチ・アゾーヴァ」に海軍少尉として乗り組んでいたゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公は結核を発病した。1891年1月23日、ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公は巡洋艦「コルニーロフ提督」に移動し、本国への帰途に就いた。1月31日、「パーミャチ・アゾーヴァ」は皇太子を乗せてセイロン島へ戻った。 その後、「パーミャチ・アゾーヴァ」は2月18日にシンガポールへ入港した。そこで当時東洋一の砲塔装甲巡洋艦であった「ナヒーモフ提督」が砲艦「マンジュール」および「コレーエツ」を引き連れて合流し、2月19日には「ナヒーモフ提督」から司令官 P・N・ナジーモフ(ロシア語版)海軍中将が「パーミャチ・アゾーヴァ」へ移乗した。 5 隻に増えた艦隊は2月23日にバタヴィア、3月7日にバンコク、3月15日にサイゴンに立ち寄った。シャムでは、将校らに勲章の雨が降り注いでいる。その後、3月23日に香港、3月29日に上海に入港した。皇太子は蒸気船「ウラジオストク」に移乗し、中国敢行に赴いた。2 隻の砲艦がこれを護衛し、「パーミャチ・アゾーヴァ」はほかの 2 隻の巡洋艦とともに長崎を目指した。 1891年4月5日には、「パーミャチ・アゾーヴァ」と 2 隻の巡洋艦は長崎港に入港した。この月のうちに、長崎港にはほとんどすべてのロシア極東艦隊が集結した。すなわち、「パーミャチ・アゾーヴァ」、「ヴラジーミル・モノマフ」、「ナヒーモフ提督」、「マンジュール」、「コレーエツ」、「ボーブル」、クリッパー「ジギート」、それに義勇艦隊の蒸気船「ペテルブルク」、「ウラジーミル」、「バイカール」である。 4月16日には皇太子は中国観光から「パーミャチ・アゾーヴァ」に戻ったが、復活大祭のため公式行事は控えられた。そのため艦隊は長期にわたって長崎停泊を余儀なくされたが、その間、皇太子は身分を隠してお忍びで近在の村を回り、一方、日本人は頻繁にお召し艦「パーミャチ・アゾーヴァ」を訪れた。また、彼らは「地元の特産品」を好意の印としてお召し艦へ持ち込んだ。その後、皇太子は鹿児島へ赴き、旧薩摩藩主島津忠義と親交を深めた。ニコライは鹿児島での歓待に感激し、父アレクサンドル3世は翌1892年、忠義に対し「忠義にアレクサンドル・ネフスキー勲章および白鷲大綬章(ロシア語版)を授与する」と記した勲記を送っている。訪日の日程は非常に順調で、日本人はロシア皇太子の訪日をきわめて好意的に歓迎したので、その後に起こった大津事件はまさに「青天の霹靂」であった。 皇太子一行を乗せた「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア艦隊は4月27日に神戸港に入り、皇太子はそこから汽車で京都へ向かった。街頭はロシア、ギリシャ、日本の国旗で飾られ、人々は歓迎の拍手と喝采を送った。4月29日には有栖川宮威仁親王らを伴って琵琶湖観光を行い、滋賀県庁での昼食ののち、京都へ向かった。その途上、ニコライ皇太子は警備の警官に切りつけられ、負傷した。 4月30日深夜には明治天皇が京都に到着し、翌5月1日、ニコライ皇太子を見舞った。この日、皇太子は天皇の見送りを受けて旗艦「パーミャチ・アゾーヴァ」へ戻り、旗艦上では艦隊および司令部の全士官が整列して万歳を連呼し、皇太子を歓迎するとともに、天皇一行の厚意に対して謝意を表した。 お詫びの意味もあり、天皇からロシア士官らへ各等級の旭日章などが授与された。艦隊を指揮した侍従武官 V・G・バサルギーン(ロシア語版)海軍少将と P・N・ナジーモフ海軍中将には勲一等旭日大綬章が、「パーミャチ・アゾーヴァ」艦長 N・N・ロメン 1 等佐官、「ヴラジーミル・モノマフ」艦長 F・V・ドゥバーソフ(ロシア語版) 1 等佐官、「ナヒーモフ提督」艦長 A・V・フェドートフ 1 等佐官にはそれぞれ勲二等旭日重光章が、「パーミャチ・アゾーヴァ」士官長 O・A・エンクヴィスト(ロシア語版)、「ヴラジーミル・モノマフ」士官長 G・F・ツィフヴィーンスキイ、「ナヒーモフ提督」士官長 A・R・ロジオーノフには勲三等瑞宝章が授与され、ツィフヴィーンスキイにはさらに勲四等旭日小綬章も授章した。 その後、ニコライ皇太子は旗艦を視察して過ごしたが、5月4日に皇帝アレクサンドル3世からウラジオストクへ直行するよう下命されたので、5月7日には出航することとなった。これにより天皇の招きに応じて東京へ向かうことはできなくなり、かわりに天皇は神戸埠頭の皇室東屋で朝食を催したい旨、打診した。怪我の具合を診た医師の禁止により皇太子は上陸を許されなかったので、最終的に天皇一行を「パーミャチ・アゾーヴァ」へ招待することになった。5月6日にはニコライは 23 歳の誕生日を迎えたが、大阪の商人らが 3 隻の船に贈り物を積んで「パーミャチ・アゾーヴァ」を訪問し、代表団の表敬を受けた旗艦には贈り物が山積みになった。ニコライは、日本国民の素朴で誠意の籠もった対応に感激している。この日、艦隊では電飾を点したカッターボートによるレースが開催されている。 出発の日となる5月7日午後零時半、天皇一行は「パーミャチ・アゾーヴァ」を訪問した。朝食会は至って打ち解けた雰囲気で終了した。その後、夕方5時に「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア艦隊は出港し、瀬戸内海を抜けて日本を後にした。 日本を発った一行は、最終目的地であるウラジオストクへ向かった。5月11日に「ナヒーモフ提督」と「ヴラジーミル・モノマフ」がウラジオストクへ到着し、5月16日には皇太子を乗せた「パーミャチ・アゾーヴァ」が砲艦を伴ってウラジオストクへ入港した。5月18日には、横浜から出発したクリッパー「ジギート」がウラジオストクへ帰港した。5月19日には、ニコライ皇太子はシベリア鉄道の起工式に出席した。 その後、ウラジオストクでは、皇帝旗を掲げたフリゲート「パーミャチ・アゾーヴァ」以下、バルト艦隊所属の装甲巡洋艦「ナヒーモフ提督」、装甲フリゲート「ウラジーミル・、モノマフ」、クリッパー「ジギート」が勢揃いし、シベリア小艦隊(ロシア語版)所属の砲艦「コレーエツ」、「シヴーチ」、「マンジュール」、「ボーブル」もこれに加わった。 5月21日、ウラジオストクにおいて皇太子は最終的に下艦した。また、病を得たロメン 1 等佐官は艦長を降りてS・F・バウエル 1 等佐官に交替した。ロメン 1 等佐官は、ゲオルギオス王子とともに砲艦「コレーエツ」で横浜に向かった。一方、皇帝アレクサンドル3世は航海の成功を祝してファベルジェ社に対し、艦のミニチュアを内包した 2 つの卵の制作を命じた。
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