奉天会戦の影響と日露講和への道
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「奉天会戦」の記事における「奉天会戦の影響と日露講和への道」の解説
奉天を制圧したことにより、会戦の勝利は日本側に帰したとも言えなくもないが、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退」であった。100年前のナポレオン戦争でもロシア軍が採用した伝統的な戦法であり、欧米のマスコミも当初はこの撤退を「戦略的撤退である」と報じていた。さらにロシア軍と日本軍では補給能力に格段の差があった。だがクロパトキンが罷免されたことで結果的にロシア軍が自ら敗北を認めてしまった形となり、国際的にもそのように認知されることとなった。代わりに総帥として就任したリネウィッチ将軍は、軍隊秩序を乱した者を処罰していくことによって、軍の建て直しに腐心した。ロシア軍は敗北を認めた上で、やがて日本軍に反撃することを意図していたと言える。 ロシア側は奉天会戦に敗北したとは言っても、ロシア陸軍(現役兵の兵力は約200万人で、大日本帝国の約10倍)はいまだ半分の動員しか行っておらずまだ健在であり、またインド洋にはバルチック艦隊が極東への航海の途上であり、陸海軍ともに額面上の継戦能力はまだ十分にあった。しかし、この年の1月の血の日曜日事件を皮切りにロシア第一革命が始まるなど、激しくなる国内の反乱分子の活動への鎮圧活動、およびドイツ帝国への対抗として露仏同盟を結んでいたフランスがこの年の3月の第一次モロッコ事件でドイツと対立するなど、他の欧州諸国に対する抑止力も大量に必要とされていたため、もはや遠く極東への戦力の大量補充は実質上不可能となっていた。 奉天会戦勝利の報に日本中は沸き返り、さらに戦争を継続すべしという世論が高まった。大本営は、奉天会戦の勝利を受けてウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画し始めていた。また、4個師団(第13・第14・第15・第16師団)を新編し、講和圧力のために第13師団を樺太へ派遣、これを占領した。これを知った大山巌満州軍総司令官は児玉満州軍参謀長と協議し、児玉を急ぎ東京へ戻して戦争終結の方法を探るよう具申した。目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したが、日本軍の継戦能力の払底を理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成し、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。 日露の講和を促そうと、アメリカ合衆国大統領のセオドア・ルーズベルトが駐露大使のマイヤーに訓令を発し、ニコライ2世に謁見させたが、バルチック艦隊の実情をよく知らなかったロシア宮廷には、「バルチック艦隊が思い上がった日本に鉄槌を下すであろう」という希望的観測から講和を渋る声があった。そのため、いったんは日露講和は頓挫する。しかし、5月日本海海戦において日本海軍が完勝すると、アメリカ合衆国の調停によって両国は交渉の席に着き、9月、休戦が成立。10月、ポーツマス条約が批准され、日露戦争は終結した。
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