奉天会戦の影響と日露講和への道とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 奉天会戦の影響と日露講和への道の意味・解説 

奉天会戦の影響と日露講和への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:46 UTC 版)

奉天会戦」の記事における「奉天会戦の影響と日露講和への道」の解説

奉天制圧したことにより、会戦勝利日本側に帰したとも言えなくもないが、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退であった100年前ナポレオン戦争でもロシア軍採用した伝統的な戦法であり、欧米マスコミ当初はこの撤退を「戦略的撤退である」と報じていた。さらにロシア軍日本軍では補給能力格段の差があった。だがクロパトキン罷免されたことで結果的にロシア軍が自ら敗北認めてしまった形となり、国際的にそのように認知されることとなった代わりに総帥として就任したリネウィッチ将軍は、軍隊秩序乱した者を処罰していくことによって、軍の建て直し腐心したロシア軍敗北認めた上で、やがて日本軍反撃することを意図していたと言えるロシア側は奉天会戦敗北したとは言ってもロシア陸軍現役兵の兵力は約200万人で、大日本帝国の約10倍)はいまだ半分動員しか行っておらずまだ健在であり、またインド洋にはバルチック艦隊極東への航海途上であり、陸海軍ともに額面上の継戦能力はまだ十分にあった。しかし、この年1月血の日曜日事件皮切りにロシア第一革命が始まるなど、激しくなる国内の反乱分子活動への鎮圧活動、およびドイツ帝国への対抗として露仏同盟結んでいたフランスこの年3月第一次モロッコ事件ドイツ対立するなど、他の欧州諸国対す抑止力大量に必要とされていたため、もはや遠く極東へ戦力大量補充実質不可となっていた。 奉天会戦勝利の報に日本中は沸き返り、さらに戦争継続すべしという世論高まった大本営は、奉天会戦勝利を受けてウラジオストクへの進軍による沿海州占領計画し始めていた。また、4個師団(第13・第14・第15第16師団)を新編し、講和圧力のために第13師団樺太派遣、これを占領した。これを知った大山巌満州軍総司令官児玉満州軍参謀長協議し児玉急ぎ東京へ戻して戦争終結方法を探るよう具申した目先の勝利浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大主張したが、日本軍継戦能力払底理解していた海軍大臣山本権兵衛児玉意見賛成し、ようやく日露講和準備始められることとなった日露講和促そうと、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト駐露大使マイヤー訓令発しニコライ2世謁見させたが、バルチック艦隊実情をよく知らなかったロシア宮廷には、「バルチック艦隊思い上がった日本鉄槌を下すであろう」という希望的観測から講和渋る声があった。そのため、いったんは日露講和頓挫する。しかし、5月日本海海戦において日本海軍完勝すると、アメリカ合衆国調停によって両国交渉の席に着き9月休戦成立10月ポーツマス条約批准され日露戦争終結した

※この「奉天会戦の影響と日露講和への道」の解説は、「奉天会戦」の解説の一部です。
「奉天会戦の影響と日露講和への道」を含む「奉天会戦」の記事については、「奉天会戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「奉天会戦の影響と日露講和への道」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奉天会戦の影響と日露講和への道」の関連用語

1
14% |||||

奉天会戦の影響と日露講和への道のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奉天会戦の影響と日露講和への道のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの奉天会戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS