奉天派での活動
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清末に、遼陽警務提調、奉天咨議局副議長などを歴任した。1913年(民国2年)10月、奉天省財政司司長、約法会議議員に就任する。1915年(民国4年)、参政院参政となる。袁世凱死後、袁金鎧は張作霖の奉天派に属した。1916年(民国5年)、奉天督軍署秘書長に就任する。以後、黒竜江省督軍署秘書長、中東鉄路董事(理事)、臨時参政院参政、清史館編修などを歴任した。 張学良が東北統治を開始すると、1929年(民国18年)1月、東北政務委員会委員兼東北辺防軍司令長官公署参議となる。1930年(民国19年)、監察院監察委員兼通志館副館長に就任した。張作霖の下での袁金鎧は、王永江亡き後において于沖漢とともに奉天文治派の双璧と称されていたが、張学良の下では旧派として疎外され、政治的影響力を失っていった。
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奉天派での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 14:01 UTC 版)
鉄嶺県羅家房身村の出身。1906年6月、清政府より日本留学に送られ、1911年5月に陸軍士官学校歩兵科を卒業し帰国。1914年(民国3年)、奉天陸軍補習所学堂監督を経て、洮遼鎮守使署で呉俊陞の副官をつとめた。1916年(民国5年)春、奉天軍署参謀兼全省警務処視察長となる。1918年(民国7年)1月21日、陸軍第29師参謀長に任命され、1919年(民国8年)1月1日、陸軍歩兵上校となった。この他、黒竜江督軍公署参謀長、東三省特別区警察総管理処副処長も歴任している。 奉天派が入関すると、于珍は奉軍駐津司令部参謀処長、奉軍第2補充旅旅長、北京参戦事務処副官を歴任した。1922年(民国11年)、第1次奉直戦争で奉天派が敗北すると、奉天全省警備隊統領となる。さらに奉天保甲局総弁、奉天省警務処会弁もつとめた。翌年10月、奉天警務処処長も兼ねている。 于珍は楊宇霆率いる日本留学者で形成された士官派に属しており、張学良・郭松齢の陸大派とは対立した。1925年(民国14年)秋、陸大派の牽制をもくろんだ楊宇霆により張学良が軍団長を務める第3方面軍の副軍団長に発令されたが、就任しなかった。冬からは、鎮威軍第8軍副軍長、第3方面軍後方留守総司令、東北陸軍第10師師長を歴任した。翌1926年(民国15年)3月には、張学良・韓麟春が率いる第3・第4方面軍団第10軍軍長兼第8師師長をつとめた。同年8月21日、珍威将軍位と陸軍中将位を授かり、翌月には京畿警衛司令に就任した。 同年12月、奉天軍は半ば独立していた張宗昌の直魯聯軍のほか孫伝芳の五省聯軍、閻錫山の山西軍を取り込んで安国軍(中国語版)を名乗る。1927年(民国16年)2月、安国軍第3・第4方面軍団は河南省に出兵。当初、第10軍は最後尾だったが、黄河を渡河中に楊宇霆の指示で急遽最前列に変更される。また、交通部次長の常蔭槐は士官派支持者だったため、輜重兵や軍用車を優先的に配備してもらう事が出来た。一方、非士官派の趙恩臻率いる第11軍はそのしわ寄せを食った。5月1日、直隷派残党の河南保衛軍(総司令:靳雲鶚、副司令:魏益三)を上蔡県に追い詰めて包囲し、開封を占領した。しかし、部隊を開封に集中させ周辺の防御が手薄だったことに加え、地元紳商の懐柔に腐心する余り軍の指揮を怠り、武漢国民政府に転向した靳の救援要請を受け入省した張発奎率いる国民革命軍第1集団軍第4方面軍第1縦隊と馮玉祥率いる第2集団軍東路軍によって上蔡は解囲された。更に両軍は北伐の進軍を続け、6月2日には開封を奪われ、全軍覆滅の敗北を喫した。この失態を問われ、軍長を罷免された。9月、京綏検閲使に任じられている。
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奉天派での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:48 UTC 版)
元々は盗賊追捕の任にあった。しかし日清戦争を境に、馬賊の馮徳麟配下となる。日露戦争後に馮に従って清朝に帰順し、張海鵬は巡防隊管帯となる。また、奉天講武堂で学習した。1910年(宣統2年)、張作霖と知り合い、義兄弟の契りを交わした。 中華民国が成立した1912年(民国元年)12月、張海鵬は第28師第55旅旅長(第28師師長:馮徳麟)に任命された。1917年(民国6年)、張勲復辟に呼応して挙兵した馮が張作霖に逮捕され、失脚する。以後、張海鵬は張作霖配下に転じた。1921年(民国10年)、張海鵬は中東鉄道護路軍哈満副司令に任命され、1923年(民国12年)には同軍総司令に昇進した。翌年の第2次奉直戦争の後に、奉天騎兵第1遊撃隊統領となった。1927年(民国16年)、遼寧洮遼(または洮南)鎮守使兼東北騎兵第32師師長に任命された。
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奉天派での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/22 04:08 UTC 版)
北洋陸軍速成学堂第3期騎兵科を卒業し、1908年(光緒34年)冬から、黒竜江省で軍務に就いた。1917年(民国6年)に団長まで昇進し、1918年(民国7年)6月15日に陸軍騎兵上校銜を、1920年(民国9年)3月23日に陸軍騎兵上校位を授与されている。同年7月7日、病気により黒竜江省陸軍騎兵第1旅第2団団長を辞職したが、11月には吉林省へ転勤した。 1922年(民国11年)6月、于琛澂は、暫編吉林陸軍第1旅旅長に昇進した。翌月、第3混成旅旅長となり、翌年1月、東三省陸軍歩兵第10旅旅長兼吉林剿匪司令に任ぜられた。1925年(民国14年)、東北陸軍第16師師長に昇進し、1927年(民国16年)、呉俊陞率いる安国軍第6方面軍に属している。翌年6月に奉天派が敗北し、張作霖爆殺事件が起きると、張学良は奉天派の軍縮・再編に取り掛かった。しかし于琛澂は、その際に軍職から罷免されてしまった。
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