奉天派への大敗と国民政府への帰順
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「靳雲鶚」の記事における「奉天派への大敗と国民政府への帰順」の解説
その翌日の2月8日、安国軍(中国語版)大元帥の張作霖は呉佩孚が武漢を奪還できないことにしびれを切らし、「援呉」を名目として河南省進出を宣言、韓麟春・張学良率いる第3・4方面軍、および張宗昌率いる直魯聯軍が迫りつつあった。 10日、呉佩孚は鄭州にて緊急軍事会議を開き、張作霖と戦うか否かを議論していた。参加者は賀国光ら連携派と王為蔚ら徹底抗戦派に二分され、会議は紛糾していた。靳雲鶚は高汝桐の第14師を鄭州に派遣し、張作霖と戦うよう呉佩孚に迫った。呉佩孚は靳雲鶚に全軍指揮を任せ、張作霖と戦う事を決意する。12日(15日とも)、靳雲鶚は王為蔚・秦徳純ら自身の直属の部隊のほか魏益三ら直隷派の残軍・米振標の毅軍を集めて河南保衛軍を設立、総司令として一時は自立する。しかし、米振標・郭振才らは相次いで離反を表明。 27日、直魯聯軍は中牟に到達し、鄭州に迫りつつあった。3月1日、新鄭にて会議を開き、魏益三を副司令、呉佩孚の残軍を16個軍に再編し、田維勤・王為蔚らを軍長とする事とした。この時、馮玉祥とも既に内通している。15日、呉佩孚は鄭州を脱出し、洛陽へと逃れていった。靳雲鶚は魏益三・田維勤と開封防衛に徹するが、17日、鄭州を奪われ、許昌へと撤退。20日、高汝桐の第14師が鄭州を奪還する。高汝桐は4日に渡って攻防戦を繰り広げ、25日の朝に装甲車3両を率いて決死隊を組み、鄭州南郊にて安国軍の装甲車と交戦、砲兵の平射砲に撃破され壮絶な最期を遂げた。その間の22日に開封も直魯聯軍の孫殿英に奪われた。靳雲鶚は4月3日より14日まで3度にわたり信陽奪還を試みるが失敗。その頃、武漢国民政府は4月12日、河南省への北伐を決定。18日、馮玉祥率いる第2集団軍が進軍を開始した。また20日、郾城にて武漢国民政府より派遣された于樹徳(中国語版)を主席とする慰労河南軍民代表団の慰問を受ける。 5月1日には省南東部の上蔡県に追い詰められ、于珍率いる安国軍第10軍に包囲されてしまうが、張発奎率いる国民革命軍第1集団軍第4方面軍第1縦隊と劉鎮華率いる第2集団軍東路軍によって上蔡は解囲された。第4方面軍左路軍(第3縦隊)に再編され、劉興率いる中路軍(第2縦隊)とともに北上、両軍は更に進軍を続け、河南省から安国軍を駆逐。6月10日に行われた鄭州会議(中国語版)の結果、河南省は第2集団軍総司令の馮玉祥の管轄となり、11日、靳雲鶚は第2集団軍第2方面軍総指揮に任命され、隷下部隊は秦徳純の1個軍に縮編された。ところが9月4日、再び呉佩孚の擁立を謀ったとして、馮玉祥より解任を通達され、後任には靳雲鶚の部下だった馬吉弟が任ぜられた。8日、郾城にて独立を宣言し挙兵、方振武の第3集団軍の一部も参加した。北部の許昌に兵を進め、第2集団軍主力と交戦する。11日、南大石橋の戦いを経て許昌から撤退し、臨潁県へ逃れた。しかし、孫良誠率いる第2集団軍第1方面軍が郾城を制圧、また南からも孫連仲率いる第2集団軍第9方面軍が西平県を制圧した。14日、馮玉祥は総攻撃を命じ、郾城・許昌・臨潁・新鄭にて激戦が繰り広げられた。北上し開封へと兵を進め、15日、尉氏県を確保。しかし韓復榘・鄭金声・石友三に撃破され、18日、安徽省に逃れる。 靳雲鶚は蔣介石を頼ってその下に逃れる。まもなく南京の国民政府で軍事参議院上将参議に任命された。1930年(民国19年)に中原大戦が勃発すると河南宣撫使兼任。同年間もなく引退。実業界に転じ、済南で庭園の貸し出しを営んでいた。 1935年(民国24年)10月23日、北平(北京)で死去。享年55。
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