奉天派の重鎮へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 16:40 UTC 版)
1918年(民国7年)9月、張作霖が東三省巡閲使に昇進すると、張作相は東三省講武堂堂長兼衛隊旅旅長となった。1919年(民国8年)8月、第27師師長に、さらに1920年(民国9年)秋、駐関内奉軍総司令に昇進した。このとき、自分の手で育成した張学良を抜擢している。 1922年(民国11年)4月、第1次奉直戦争が勃発すると、張作相は東路軍第1梯団司令をつとめた。しかし、西路を率いる張景恵が直隷派に脆くも大敗したため、張作相は西路軍の退却を支援する役目に回った。東三省に戻ると、張作相は東三省保安総司令部総参議兼第27師師長として、奉軍の整備を主導し、直隷派への報復を目指した。 1924年(民国13年)4月、病没した孫烈臣を後継して、吉林督軍兼省長となる。同年9月、第2次奉直戦争が勃発すると、張作相は鎮威軍第4軍軍長として参戦し、直隷派を撃破した。1925年(民国14年)12月の郭松齢の反乱を鎮圧後、呉俊陞・楊宇霆らは反乱軍への厳罰を主張したが、張作相・韓麟春は寛大な処置を主張する。結局、張作霖は後者をとった。1927年(民国16年)6月、安国軍第5方面軍軍団長(9月には兼東省鉄路護路軍総司令)として東北で後方守備をつとめた。
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