奉天派での活躍
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1918年(民国7年)、許蘭洲は、張作霖から攝陝奉軍司令に任命された。以後、1920年(民国9年)に東三省巡閲使署参謀長、1922年(民国11年)に東北騎兵第1師師長(騎兵集団司令)と歴任した。同年4月の第1次奉直戦争に参戦したが、直隷派に包囲され、軍を殲滅された。 民国12年(1923年)に東北陸軍整理処顧問となる。1924年(民国13年)9月、鎮威軍第6軍軍長に任命され、江蘇省・浙江省方面での直隷派との戦いで善戦した。1927年(民国16年)に安国軍大元帥府侍従武官長となった。1928年(民国17年)6月の張作霖死後に引退し、天津に移住する。後に北京紅十字会会長、河北省国術館館長等を務めた。 1951年1月14日、北京で病没。享年80。
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奉天派での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 22:45 UTC 版)
中華民国成立後は、趙爾巽・袁金鎧の推薦もあって、王永江は各地で税務部門の職を歴任する。1915年(民国4年)、奉天省税務局長兼清丈局長兼屯墾局長に昇進した。翌年には、やはり袁の張作霖への推薦もあって、奉天督軍署高等顧問に任じられた。11月には、全省警務処長兼省会警察庁長に任命され、後には省財政庁長、代理奉天省長などもつとめた。 王永江の行政手腕は、警務・税務・実業の各方面で発揮された。特に警務方面では、近代的な警察行政制度の導入により、緑林出身者が多かった奉天派内部の粛清に大きく貢献している。王の統制に対しては湯玉麟が諍いを起こしたが、張作霖は王を支持した。このほかにも、財政改革や税務改革にも貢献し、奉天派の財政状況を好転させ、その軍事力・政治力の拡張に貢献した。これらの実績により王は、奉天派内部で「文治派」の首領と目された。 1920年(民国9年)7月から、張作霖が北京政府中央の政治闘争に介入しようとする。王永江は民力休養を唱えてこれに反対したため、次第に張から冷遇されていく。それでも1922年(民国10年)4月の第1次奉直戦争で張が敗北すると、張は失策を悔悟して、王を奉天省長に任命した。翌年4月に東北大学が創設されると、王が初代校長を兼任した。
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