奉天派から国民軍、直隷派へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/17 06:34 UTC 版)
「魏益三」の記事における「奉天派から国民軍、直隷派へ」の解説
1925年(民国14年)11月、軍長の郭松齢は張作霖打倒の兵をあげ、自身の軍を東北国民軍と称し5個軍に再編。魏益三もこれに従って東北国民軍第5軍軍長兼砲兵司令となり、3個旅団、騎兵、砲兵各1団を擁して山海関を占領。翌月、郭松齢が敗死すると、ほかの4個軍は武装解除されるが、魏益三はそれを拒み、部下の郝夢齢(中国語版)を介して馮玉祥率いる国民軍に合流。鹿鍾麟の助けで灤河西岸へ逃れ、1926年(民国15年)1月3日、国民軍第4軍軍長兼灤河防守司令部副司令に任ぜられた。2月に保定に移駐。しかし3月に国民軍が敗北すると、魏益三は国民軍を離れて山西省の閻錫山に降り、3月25日、自軍を「正義軍」と自称する。5月、閻錫山により正義軍は討国民聯軍第4軍第1路に改編され、魏益三は第4軍副司令兼第1路司令に任ぜられる。その後、閻錫山と連携していた呉佩孚の十四省討賊聯軍に移籍し、第4軍副総司令、6月より第3路総司令に任ぜられた。1927年(民国16年)初めに、靳雲鶚率いる河南保衛軍に加わり、副司令兼第2方面軍軍長(第8軍とも)となる。
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