奉天派の有力軍人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 22:48 UTC 版)
奉天に戻ると、郭松齢は、陸軍大学の同級生だった督軍署参謀長秦華の推薦により、奉天督軍署中校参謀として任用された。1919年(民国8年)2月、張作霖が東三省陸軍講武堂を再建すると、郭は戦術教官として任用された。この時、張学良が講武堂で学習しており、郭の優れた能力・識見に敬意を抱いた。1920年(民国9年)春に張学良が講武堂を卒業して、巡閲使署衛隊旅旅長に任命される。その際に張学良は、父に依頼して、郭を同旅参謀長兼第2団団長として起用した。 郭松齢は参謀長として軍隊の訓練に従事し、まもなく張学良の衛隊旅は、奉天派でも屈指の精鋭部隊になった。同年7月に安直戦争が勃発する。郭は張作霖から先鋒司令に任命されて直隷派側として参戦し、天津小站で安徽派の2旅を殲滅する功績を挙げた。その後も、郭は東北で匪賊討伐に貢献し、次第に張作霖からも信任を得るようになる。 1921年(民国10年)5月、張作霖が蒙疆経略使を兼任し、奉天陸軍を10個混成旅に拡充する。その際に、張学良が第3混成旅旅長に任命され、郭松齢は第8混成旅旅長に抜擢された。この第3旅と第8旅は、連合司令部を組織している。張学良は、軍の運営・訓練に関して、郭に実際の責任を委ねた。1922年(民国11年)4月、第1次奉直戦争が勃発して奉天派は大敗した。しかし張学良・郭松齢が率いる第3混成旅・第8混成旅は善戦し、壊滅することなく整然と撤退した。その後、張作霖は陸軍整理処を設置し、同処参謀長に張学良、参謀長代理に郭松齢が任ぜられ、軍隊の整理・訓練に従事した。その一方で郭は、張作霖にしばらくの民力休養と内政の近代化を進言したが、これは受け入れられなかった。
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