安直戦争とは? わかりやすく解説

あんちょく‐せんそう〔‐センサウ〕【安直戦争】

読み方:あんちょくせんそう

1920年中国北洋軍閥安徽(あんき)派(親日)と直隷(ちょくれい)派(親米英)との戦争袁世凱(えんせいがい)死後の勢力争いで、直隷派勝って日本勢力後退した


安直戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/16 20:51 UTC 版)

安直戦争(あんちょくせんそう,または直皖戦争)は1920年7月14日に勃発した戦争である。中国の北京政府の主導権を巡って華北地方で安徽派段祺瑞直隷派曹錕が戦ったため、「安(徽)直(隷)戦争」と呼ばれる。5日間の戦闘で安徽派は大敗し、段祺瑞の政権は崩壊した。


  1. ^ 辺防軍:当時の北京政府では配下の軍をこのように改称していた。
  2. ^ 高碑店・涿州・琉璃河:それぞれ現在の「保定市高碑店県級市」「保定市涿州県級市」「北京市房山区琉璃河鎮」の事。
  3. ^ 長辛店:現在の北京市豊台区長辛店鎮。
  4. ^ 櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」『経済社会総合研究センター』第29巻、麗澤大学経済社会総合研究センター、2008年12月、 1-41頁、 doi:10.18901/00000407NAID 120005397534


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安直戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/16 09:36 UTC 版)

安徽派」の記事における「安直戦争」の解説

詳細は「安直戦争」を参照 政権掌握した安徽派日本からの借款通じて国力増進努めたが、五四運動などの反日感情の高まりと共に国内支持率低下していった。これを好機見たのは直隷派である。1920年7月直隷派イギリス・アメリカ支援受けて仇敵である奉天派連合して兵を起こす。これが安直戦争(直皖戦争)である。安徽派段祺瑞副将格である徐樹錚派遣するがこれに大敗し1920年7月19日段祺瑞国務総理辞任する。 安直戦争の敗戦段祺瑞徐樹錚盧永祥段芝貴安徽派の主要メンバーは皆失脚し事実上この時に安徽派崩壊する。後にこの時の直隷派政権崩壊すると、1924年11月23日から1926年4月20日まで一時的に段祺瑞大総統当職である臨時執政就任しているが、あくまで軍閥バランスにあって就任であり、すでに単独政権担えるだけの力は持っていなかった。

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安直戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 01:12 UTC 版)

呉佩孚」の記事における「安直戦争」の解説

1920年民国9年5月呉佩孚衡陽から撤兵し、京漢鉄道沿線である鄭州保定間を掌握する同年7月、呉は曹錕と共に安徽派対す事実上宣戦布告行い、安直戦争が勃発した。この時、曹・呉らの直隷派奉天派張作霖連合していたこともあり、わずかの期間で直隷派圧勝北京掌握することになった9月、曹が直巡閲使に任ぜられると、呉も同巡副使となり、洛陽駐留している。1921年民国10年7月直隷派湖北督軍王占元失政により湖北自治運動招き南方政府連携した湖北自治軍により追放されてしまった。この時、呉は配下蕭耀南派遣して湖北自治軍を撃破している。翌月、呉は両湖巡閲使に昇進し湖北督軍起用された。 その一方でこの頃から、イギリス・アメリカと結ぶ直隷派日本と結ぶ奉天派との間で主導権争い激化していく。

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安直戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:35 UTC 版)

段祺瑞」の記事における「安直戦争」の解説

こうして主導権取り戻したかに見えた段祺瑞だったが、1918年3月自派張敬尭湖南督軍任命するという致命的な失策犯した護法軍政府との最前線では直隷派呉佩孚馮玉祥勇戦していたにもかかわらず戦功はほとんど無かった張を贔屓したのである。これには呉・馮は勿論、一度は段が篭絡した彼らの上司たる曹錕も反発した。特に呉は、秘密裏護法軍政府和議を結び、8月には再び「和平統一」の旗印掲げている。こうして安徽派直隷派抗争は再び熱を帯びることになり、更に安徽派日本への接近姿勢他派から激しく避難されることになった10月情勢逼迫を受け、段はまたしても国務総理辞任している。 1919年民国8年)、段祺瑞パリ講和会議においてヴェルサイユ条約調印図ったが、これに反対する五四運動勃発招いてしまう。この五四運動の中で安徽派政治家、特に対日交渉従事した曹汝霖陸宗輿章宗祥徹底的に攻撃された。しかも呉佩孚直隷派護法軍政府五四運動支持し陸徴祥パリ講和会議代表団最後北京政府命令蹴ってヴェルサイユ条約調印拒否している。この結果安徽派威信を完全に喪失することになった。それでも段は「参戦軍」を「辺防軍」と改称し総司令徐樹錚)、引き続き主導権握ろう抵抗した。しかし、ここに来て世論動き見た張作霖奉天派直隷派連合し安徽派孤立していく。 1920年民国9年5月呉佩孚湖南省前線から独断撤兵7月には大総統徐世昌直隷派突き上げ受けて徐樹錚辺防総司令から罷免してしまう。段祺瑞負けじと徐世昌圧力をかけ、7月9日に曹錕と呉を罷免させる。こうして14日に両派は全面衝突至った(安直戦争)。しかし呉や馮玉祥直隷派の軍は精鋭であり、更に奉天派直隷派味方していたため、僅か4日安徽派全軍覆滅追い込まれてしまう。惨敗喫した段は下野表明し天津日本租界逃げ込んだ

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