あんちょく‐せんそう〔‐センサウ〕【安直戦争】
安直戦争
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安直戦争(あんちょくせんそう,または直皖戦争)は1920年7月14日に勃発した戦争である。中国の北京政府の主導権を巡って華北地方で安徽派の段祺瑞と直隷派の曹錕が戦ったため、「安(徽)直(隷)戦争」と呼ばれる。5日間の戦闘で安徽派は大敗し、段祺瑞の政権は崩壊した。
- ^ 辺防軍:当時の北京政府では配下の軍をこのように改称していた。
- ^ 高碑店・涿州・琉璃河:それぞれ現在の「保定市高碑店県級市」「保定市涿州県級市」「北京市房山区琉璃河鎮」の事。
- ^ 長辛店:現在の北京市豊台区長辛店鎮。
- ^ 櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」『経済社会総合研究センター』第29巻、麗澤大学経済社会総合研究センター、2008年12月、 1-41頁、 doi:10.18901/00000407、 NAID 120005397534。
安直戦争
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詳細は「安直戦争」を参照 政権を掌握した安徽派は日本からの借款を通じて国力の増進に努めたが、五四運動などの反日感情の高まりと共に国内の支持率は低下していった。これを好機と見たのは直隷派である。1920年7月、直隷派はイギリス・アメリカの支援を受けて、仇敵である奉天派と連合して兵を起こす。これが安直戦争(直皖戦争)である。安徽派は段祺瑞の副将格である徐樹錚を派遣するがこれに大敗し、1920年7月19日に段祺瑞は国務総理を辞任する。 安直戦争の敗戦で段祺瑞、徐樹錚、盧永祥、段芝貴ら安徽派の主要メンバーは皆失脚し、事実上この時に安徽派は崩壊する。後にこの時の直隷派政権が崩壊すると、1924年11月23日から1926年4月20日まで一時的に段祺瑞が大総統相当職である臨時執政に就任しているが、あくまで軍閥のバランス上にあっての就任であり、すでに単独で政権を担えるだけの力は持っていなかった。
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安直戦争
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1920年(民国9年)5月、呉佩孚は衡陽から撤兵し、京漢鉄道の沿線である鄭州-保定間を掌握する。同年7月、呉は曹錕と共に安徽派に対する事実上の宣戦布告を行い、安直戦争が勃発した。この時、曹・呉らの直隷派は奉天派の張作霖と連合していたこともあり、わずかの期間で直隷派が圧勝、北京を掌握することになった。9月、曹が直魯豫巡閲使に任ぜられると、呉も同巡閲副使となり、洛陽に駐留している。1921年(民国10年)7月、直隷派の湖北督軍王占元が失政により湖北自治運動を招き、南方政府と連携した湖北自治軍により追放されてしまった。この時、呉は配下の蕭耀南を派遣して湖北自治軍を撃破している。翌月、呉は両湖巡閲使に昇進し、蕭も湖北督軍に起用された。 その一方でこの頃から、イギリス・アメリカと結ぶ直隷派と日本と結ぶ奉天派との間で主導権争いが激化していく。
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安直戦争
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こうして主導権を取り戻したかに見えた段祺瑞だったが、1918年3月、自派の張敬尭を湖南督軍に任命するという致命的な失策を犯した。護法軍政府との最前線では直隷派の呉佩孚や馮玉祥が勇戦していたにもかかわらず、戦功はほとんど無かった張を贔屓したのである。これには呉・馮は勿論、一度は段が篭絡した彼らの上司たる曹錕も反発した。特に呉は、秘密裏に護法軍政府と和議を結び、8月には再び「和平統一」の旗印を掲げている。こうして安徽派と直隷派の抗争は再び熱を帯びることになり、更に安徽派は日本への接近姿勢を他派から激しく避難されることになった。10月、情勢の逼迫を受け、段はまたしても国務総理を辞任している。 1919年(民国8年)、段祺瑞はパリ講和会議においてヴェルサイユ条約調印を図ったが、これに反対する五四運動の勃発を招いてしまう。この五四運動の中で安徽派の政治家、特に対日交渉に従事した曹汝霖・陸宗輿・章宗祥が徹底的に攻撃された。しかも呉佩孚ら直隷派や護法軍政府が五四運動を支持し、陸徴祥らパリ講和会議代表団も最後は北京政府の命令を蹴ってヴェルサイユ条約調印を拒否している。この結果、安徽派は威信を完全に喪失することになった。それでも段は「参戦軍」を「辺防軍」と改称し(総司令:徐樹錚)、引き続き主導権を握ろうと抵抗した。しかし、ここに来て、世論の動きを見た張作霖ら奉天派も直隷派と連合し、安徽派は孤立していく。 1920年(民国9年)5月、呉佩孚は湖南省の前線から独断で撤兵、7月には大総統徐世昌が直隷派の突き上げを受けて徐樹錚を辺防軍総司令から罷免してしまう。段祺瑞も負けじと徐世昌に圧力をかけ、7月9日に曹錕と呉を罷免させる。こうして14日に両派は全面衝突に至った(安直戦争)。しかし呉や馮玉祥ら直隷派の軍は精鋭であり、更に奉天派も直隷派に味方していたため、僅か4日で安徽派は全軍覆滅に追い込まれてしまう。惨敗を喫した段は下野を表明し、天津の日本租界に逃げ込んだ。
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