安徽派、奉天派での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/17 05:31 UTC 版)
1916年(民国5年)、袁世凱死後に復活した国会で衆議院秘書長を務めた。1918年(民国7年)、安徽派を支持する安福倶楽部に加入し、同党評議会副会長となっている。同年9月、安福国会で衆議院議員に選出され、同院秘書長に再任された。1920年(民国9年)2月、署理河南省省長に任ぜられる。7月、安徽派が安直戦争で敗北すると、安徽派に与していた王印川も下野した。 1924年(民国13年)、王印川は奉天派指導者・張作霖の顧問となる。翌年7月、段祺瑞の執政政府で臨時参政院参政に任ぜられた。1927年(民国15年)、張作霖が大元帥になると、王は河南招撫使に任ぜられる。北京政府が崩壊すると、王は下野、大連に閑居した。
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