安福倶楽部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 07:20 UTC 版)
1916年(民国5年)6月の袁世凱死後は、王揖唐は安徽派に属する。翌年11月に段祺瑞が臨時参議院を組織すると、王揖唐が議長に就任した。1918年(民国7年)3月8日、王は徐樹錚とともに安福倶楽部を設立し、安徽派のための様々な政治活動に従事した。同年8月2日、王揖唐は衆議院議長に就任して、以後、「安福国会」と称される国会運営を主導した。9月には大総統に徐世昌を選出している。このほか、南方政府との和平交渉では首席代表を務め、私立民国大学や中華大学の校長にもなった。しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争で直隷派に安徽派が敗北すると、同年8月3日に安福倶楽部と安福国会は徐の命令により解散させられた。王も指名手配されたため、日本へ亡命して、しばらくは著述活動に専念した。 1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)を経て段祺瑞が臨時執政として復権する。王揖唐もこれに参加し、11月には安徽省長兼督弁軍務善後事宜に就任した。1925年(民国14年)2月、善後会議議員となる。中国国民党の北伐に際しては、王は北方各派に与してこれに抵抗しようとした。しかし1928年(民国17年)の北伐完了と共に王は指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込み、再び著述活動に励んだ。1931年(民国20年)から国民政府の政治家として復帰し、東北政務委員会委員に任命された。その後、国難会議会会員、華北戦区救済委員会委員、行政院駐平政務整理委員会委員、冀察政務委員会委員、天津匯業銀行総理を歴任した。
※この「安福倶楽部」の解説は、「王揖唐」の解説の一部です。
「安福倶楽部」を含む「王揖唐」の記事については、「王揖唐」の概要を参照ください。
- 安福倶楽部のページへのリンク