安祥松平家の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 11:17 UTC 版)
戦国時代に信光は、岩津から南下し、岡崎城や安祥城を勢力下に置くなど勢力を広げ、自身の子を分立して、竹谷松平家、安祥松平家、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家といった分家を各地に置いた。 信光の子のうち、碧海郡安祥城(安城市)を与えられた安祥松平家初代の三男親忠(1501年没。のち宗家四代に数えられる)は、井田野(岡崎市井田町周辺)で中条氏らを破り武勇を上げたほか、当初与えられていた鴨田郷(岡崎市鴨田町)の館跡に、増上寺開山聖聡孫弟子の愚底を呼び松平氏菩提寺大樹寺を建立した。また、聖聡弟子の了暁を開山として大恩寺(愛知県豊川市御津町)を中興し、同寺で学んだ第四子の存牛は浄土宗総本山知恩院住持を務め皇室との関係を深めた。 親忠の嫡子長親(1544年没。五代)は、三河に侵攻してきた北条早雲を、岩津城下井田野(岡崎市井田町周辺)で破ったが、これらの混乱の中宗家岩津松平家は滅び、代わって安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。 この安祥松平家に仕えた家臣は、安祥譜代と呼ばれ、徳川最古参の家臣として、『柳営秘鑑』および『三河物語』に記載されている。とりわけ、酒井氏は松平郷時代からの家臣で、松平氏の同族ともいわれる。七代清康による山中城攻略、岡崎城攻略以降の時代は、山中譜代、岡崎譜代として、2番目に記載されている。徳川家臣団の形成に、安祥城時代が大きな影響を及ぼした。 『改正三河後風土記』に「三州十八松平家の事、徳川家是ハ御本家をさしていふ。昌安より岡崎城を清康君に献じ徳川家安祥岡崎を兼領し給ふ」と記載されており、本家分家の関係が詳細に記述されている。 安祥松平家の台頭後も、宗家の座を狙う松平一族の間に内紛が続き、6代に数えられる信忠(1531年没)は一族を抑えられず、1523年に父長親の命で若くして隠居させられた。
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