『改正三河後風土記』とは? わかりやすく解説

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『改正三河後風土記』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)

村正」の記事における「『改正三河後風土記』」の解説

『改正三河後風土記』は、将軍徳川家斉命令で、『三河後風土記』幕府史官成島司直当時幕府正史『御実紀』編纂も手がけていた)が膨大な史料校訂増補し、天保8年1837年)に将軍献上したもの。『三河後風土記』からの村正伝説そのまま残っていて、さらに信康介錯説話追加されている。それまで出ていた全ての逸話採用した結果四代不吉の刀になってしまっている。 第5巻での、家康祖父清康殺害も他の書とほぼ同じ、阿部正豊に「千子村正の刀」で背後から斬られ、右の肩から左の脇までただ一刀両断だった。 第6巻では、天文14年4月広忠岩松八弥に「何の仔細もなく」突然、村正脇差突かれ植村新六郎松平是に成敗される。諸将は八弥が凶行至った理由考えるが、謀反徴候も特に見られず、酒で酔ったいだろう結論づけた。また、広忠はこの件で死亡せず、死因について前年からの病の末、天文18年病死したとしている。 第16巻での家康息子信康切腹の段では、原典『三河後風土記』になかった村正介錯伝説付け加えられる検使役は服部半蔵天方山城守通経選ばれる(『柏崎物語』では「渡辺半蔵天方「通興」。服部半蔵説は『三河物語』)。半蔵介錯できず、山城守村正介錯、後に家康言葉聞いて山城守高野山出家する部分はほぼ『落穂集』柏崎物語』を踏襲している。ただし、後の関ヶ原の戦い後有楽斎登場説話整合性合わせるためか、この時点では村正禁止になったという話は出てこない。また、山城守は僧となった後に、結城秀康仕えたとしている。 第39巻の、関ヶ原の戦い終わったその日本陣参謁についてはおおよそ『三河後風土記』そのままだが、 有楽斎蒲生備中守(蒲生頼郷)の首を持って登場し家康有楽斎武勲を讃えつつも頼郷を不憫だとして懇ろに葬るよう指示する井伊直政本多忠勝が「近臣」「近習の人」と曖昧な表現になっている 家康の「(村正を)廃棄する要は全くない」という台詞削られている。 といった違いがある。

※この「『改正三河後風土記』」の解説は、「村正」の解説の一部です。
「『改正三河後風土記』」を含む「村正」の記事については、「村正」の概要を参照ください。

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