『改正三河後風土記』
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『改正三河後風土記』は、将軍徳川家斉の命令で、『三河後風土記』を幕府の史官成島司直(当時、幕府正史『御実紀』の編纂も手がけていた)が膨大な史料で校訂増補し、天保8年(1837年)に将軍に献上したもの。『三河後風土記』からの村正伝説はそのまま残っていて、さらに信康介錯の説話も追加されている。それまで出ていた全ての逸話を採用した結果、四代不吉の刀になってしまっている。 第5巻での、家康の祖父清康殺害も他の書とほぼ同じ、阿部正豊に「千子村正の刀」で背後から斬られ、右の肩から左の脇までただ一刀で両断だった。 第6巻では、天文14年4月、広忠が岩松八弥に「何の仔細もなく」突然、村正の脇差で突かれ、植村新六郎と松平考是に成敗される。諸将は八弥が凶行に至った理由を考えるが、謀反の徴候も特に見られず、酒で酔ったせいだろうと結論づけた。また、広忠はこの件で死亡せず、死因については前年からの病の末、天文18年に病死したとしている。 第16巻での家康の息子、信康切腹の段では、原典の『三河後風土記』になかった村正介錯伝説が付け加えられる。検使役は服部半蔵と天方山城守通経が選ばれる(『柏崎物語』では「渡辺」半蔵と天方「通興」。服部半蔵説は『三河物語』)。半蔵が介錯できず、山城守が村正で介錯、後に家康の言葉を聞いて、山城守が高野山に出家する部分はほぼ『落穂集』『柏崎物語』を踏襲している。ただし、後の関ヶ原の戦い後の有楽斎登場の説話と整合性を合わせるためか、この時点では村正が禁止になったという話は出てこない。また、山城守は僧となった後に、結城秀康に仕えたとしている。 第39巻の、関ヶ原の戦いが終わったその日の本陣参謁についてはおおよそ『三河後風土記』そのままだが、 有楽斎が蒲生備中守(蒲生頼郷)の首を持って登場し、家康は有楽斎の武勲を讃えつつも頼郷を不憫だとして懇ろに葬るよう指示する。 井伊直政と本多忠勝が「近臣」「近習の人」と曖昧な表現になっている 家康の「(村正を)廃棄する必要は全くない」という台詞は削られている。 といった違いがある。
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