『三河後風土記』
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『三河後風土記』は徳川氏創業史の一つで、序文では慶長15年(1610年)に平岩親吉(徳川譜代の重臣で犬山藩主)自らが著した作とするが、実際は正保年間(1645-1648年)より後に正体不明の人物によって書かれたもの、つまり偽書である。しかし、(版本は作られなかったものの)江戸時代には権威ある書籍として広く筆写されて読まれ、寛政の改革の一貫で、寛政5年(1793年)、講談師が辻で『三河後風土記』を読むことを禁じられるなど、幕府からも神聖視されていた。 この書の第38巻にある「忠吉卿井伊直政出仕付村正之作刀不要御当家事」で、村正が徳川家の家中で禁じられるようになったという話が物語られる。 関ヶ原の戦いが終わったその同日、諸将が集まる中で、家康が織田有楽斎(長益)・長孝父子の働きをねぎらって、その武名は比類ないと褒め称えた。有楽斎は畏まって「この老人めには似合わない無鉄砲さで可笑しいでしょうが、まあ老後の良い思い出にはなるだろうと思って敵陣に突進したまでにございます」と答えた。ここで井伊直政と本多忠勝が家康に申し上げて、有楽斎父子は西軍きっての猛将・戸田勝成と力戦し、特に長孝は戸田の兜を左から右の方へ突貫したが、その槍はいささかも刃こぼれしなかった、高名な槍といえども類いまれなことに存じます、と述べた。家康は感じ入って、まさにその通り、家宝とすべきだろう、試しにその槍を見せてくれないか、と言って持ってこさせたが、家康は槍を取り落としてしまい、指を少し切って血が流れたので、長益父子は驚いて困惑した。 家康は、恐ろしい刃金の鋭さ、これを鍛えたのは尋常の鍛冶師ではないのだろう、まさか千子村正の作ではあるまいか、と問う。有楽斎は、まさしく村正の作、銘もございますと答える。家康がしばらく黙っていたので、有楽斎父子は以降この槍を所持しないことを言上した。家康は微笑して「夢〃其義ニ及マシ」(「ゆめゆめその儀に及まじ」「そうする必要は全くない」)と釈明し、それから「まさに今回も村正の作か」と言った。 有楽斎父子は退席してからも不思議に思ったので、井伊・本多に仔細を尋ねると、家康の祖父清康が家臣の阿部正豊に村正の「太刀」で殺されて森山崩れとなった話や、家康の父の松平広忠も、岩松八弥という右眼が見えない譜代の家臣で豪傑の者が、酒狂して村正の「脇差」で広忠の股(=太腿)を突いたので、八弥を植村新六郎が誅殺したという話などを語る。 有楽斎はこれを聞いて、しからば村正の作は御三代不吉の刀槍なのか、家康公に味方する者は村正の作を用いるべきではない、と井伊・本多の眼の前で槍を木っ端微塵にへし折ってしまった。村正の作は徳川家御三代不慮の災難があるから、関ヶ原の合戦以降、御家人は言う及ばずその陪臣に至るまで、硬く禁じて所持しなかったので、上作ではあるけれども、自然と廃れたのである。 以上の物語の最後では、村正の所持を「硬ク禁シテ」と誰かが禁じたような文面になっているが、家康自身は「そうする必要は全くない」と答えているので、家中が自発的に禁じた、ということになる。 他の村正伝説については、家康の父の広忠は村正で刺されはしたものの、死亡までには至っていない。家康長男の信康が切腹させられた時の検視役は大久保忠世ただ一人になっていて、村正で介錯云々の話もない。 なお、自然な流れで気付きにくいが、有楽斎が勝手に粉々に破壊したこの村正の槍は、自分の持ち物ではなく、息子の長孝のものである。
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