『三菱ダイヤモンド・アワー』へ内包、「金8枠」定着
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「日本プロレス中継」の記事における「『三菱ダイヤモンド・アワー』へ内包、「金8枠」定着」の解説
1958年8月29日から、外国テレビ映画『ディズニーランド』の第1回より、三菱電機提供による金曜20時台枠『三菱ダイヤモンド・アワー』が開始される。 翌週の9月5日、これと同じ枠で、蔵前国技館で行われた、力道山出場の「国際試合第1日」を中継(力道山&ジョニー・バレントVSスカイ・ハイ・リー&ドン・レオ・ジョナサン) これが第1回となり、以降、『プロレスリング中継』のタイトル(ただし初期は『テレビ中継・プロレス国際大試合』)で、隔週でテレビ中継を行っていく。 ここに本格的に、定期中継番組の体制が整う。 当初は外国テレビ映画『ディズニーランド』(前述)との1週交代での放映。またネットを含めた放映局は、日本テレビ・読売テレビ ・西日本放送 ・テレビ西日本のわずかに4局のみだった。 1959年10月2日、日本テレビスタジオにおいて、初のテレビスタジオからのプロレス中継を開催。 1960年には、プロレスのカラーでの中継放送を開始する。 1961年8月25日、前述の 『ディズニーランド』を放映する週において、金曜22時台の枠を新設した。 (1961年9月までは23:00 - 23:45、同年10月以後は22:30 - 23:15→22:20 - 23:15) これで毎週『プロレスリング中継』が放映される形となった。 この枠は、開場したばかりのリキ・スポーツパレスでの試合を中心にした、録画中継が主体。 録画中継ということからか、この枠の新設を機に、『プロレスリング中継』の時差ネットを始めた地方局もあった。特に、この当時は実質的に地方局が1局しかなく、オープンネットであった影響から、地方局の大半は「三菱ダイヤモンドアワー」として放送されたものを含め、金曜8時にプロレス中継を実施する局が多かった。 1962年4月23日(当日は月曜日であったが、特番枠で放送)、カラー放送が実施されていた初期のころ、力道山VSフレッド・ブラッシーの試合中に対戦相手が流血する事故があり、それを見ていた老人3名が、同年4月27日にも、グレート東郷VSフレッド・ブラッシーの試合中に東郷が流血した場面が放送され、それを見ていた老人3名がそれぞれショック死(実際には2試合合計で20人前後がショック死したとされる)する痛ましい事故があった(この2試合はモノクロで放映された)。この影響で日本テレビは場外乱闘や流血シーンの放映のアップを避けるようになった他、カラー放送は一時自粛することになる。 1963年5月24日に放送された「WWA世界選手権・ザ・デストロイヤー対力道山」(21:15まで延長放送)は、関東地区で視聴率64.0%(ビデオリサーチ調べ)を記録し、これは現在に至るまで日本テレビの史上最高視聴率となっている。 1963年10月より20時56分 - 21時00分枠(日曜は90分番組『日曜ロードショー』のため21時26分 - 21時30分)に『NNNニューススポット』が設置されたため、『ディズニーランド』と共に放送時間が4分短縮。 1963年12月15日に力道山が急逝し、2日後の12月17日に日本テレビ、日本プロレス、三菱電機、博報堂の4社会談が行われ、『日本プロレス中継』を継続することを決定。放映権料は1回150万円を維持(他に契約更改料として100万円が日本テレビから支払われていた)。 1968年1月3日、国際プロレス(当時はTBSプロレス)との興行戦争(「隅田川決戦」)となった蔵前国技館大会を17:30から特番枠で生中継(ジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦など)。この頃の放映権料は1回あたり約200万円であった。プロレス中継は、日本テレビvsTBSテレビとの対立時代に突入する。
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