『上代仏教思想史研究』序文について
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「家永三郎」の記事における「『上代仏教思想史研究』序文について」の解説
『上代仏教思想史研究』は(1)1942年初版(畝傍書房)、(2)1948年再版(目黒書房)、(3)1950年三版(目黒書房)、(4)1966年四版(法蔵館)の4種の版が存在する。秦は産経新聞(78/1/22)で本著に関し家永批判を著した。「『上代仏教思想史研究』は(1)の序文に『この意義深き時に当たり学界の一兵卒として学問報国の戦列に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者…以て君国に報じたい』とある。しかるに(2)ではこの箇所が削除改変され、(3)(4)では復活した」 これに対し家永はこう反論した。 『誹謗に抗して』マスコミ市民(1978/4)、「憲法・裁判・人権」(1997名著刊行会)pp152-170より抜粋官憲の網にひっかからないようにくふうして表現した苦心の文章にほかならない。(中略) 文章の全体は文脈は今日そのまま私の信念として少しも変わっておらず、恥かしい文章であるとは全然考えていない。だからこの一節は1950年版にも1966年版にも、そのまま活字として載せてあるのである。秦氏によると、1948年版には削られているという。 あいにく私の手許に48年版がなく、削った記憶もないが、削られているとすれば、占領軍の検閲でひっかかるのを避けるためであったにちがいない。恥かしいと思ったからでないことだけは確実で、その2年後の50年版に初版どおり復原してあるのがその証拠である。 これに対して佐伯真光は「『上代仏教思想史研究』の象嵌」を著し、(1) - (4)各版を詳細に比較し、家永の旧著を引用した。 『歴史の危機に面して』(1954東京大学出版会)pp236-239自分の書いたものが活字になる、というのは、うれしいようで、一面恐しいことでもある。一度活字になったら最後、どんな恥しいまちがいがあつても、抹殺する方法がないからである。 ある大先輩は、一生に何千という論文を雑誌に発表したが、ほとんど単行本らしい単行本を作らなかった。雑誌に発表した論文なら、すぐまた前のを訂正した論文が出せるけれど、単行本にまちがったことを書くと、世を誤る責任が重い、というのが理由だったそうである。その学者的良心のきびしさには敬服するが、ちと単行本の読者を見くびり過ぎてはいないだろうか。私なぞは反対に、読者からまちがいを教えてもらおうという虫のよい考えで、本を出している。 まちがいを抹殺する方法はないが、訂正する方法はないではないのである。日本の出版界は改版ごとに組みかえを許してくれるほどの余裕はないようだが、象嵌訂正くらいならできる。もっとも、私は象嵌訂正でにがい経験を味わった。「上代仏教思想史研究」という本を、目黒書店で再版するというので、象嵌訂正をした。その次に重版を出すとき、再度の象嵌訂正をしたが、本が出て見て驚いたことには、二度目の訂正はちゃんと出ているかわりに、最初の訂正がまたいつのまにか初刷通りにもどっている。最初の象嵌訂正で紙型を改めたとき、古い紙型が廃棄されずに残っていて、それが二度目の重刷のときに誤って使用されてしまったのである。 再版と三版との間にこんな複雑な閑係があることは、おそらく書誌学者も御存知ないことと思うから、参考のために書いて置く。 つまり(2)で訂正したはずだが、(1)の紙型が残っていたため、(3)を出版する時に誤って使ってしまった訳である。 それでは(4)でどうして(1)の内容が掲載されたかという疑問が生じる。昭和30年代後半から家永を変節者として攻撃する声が高まった。『津田左右吉の思想的研究』(1972岩波書店)で、家永は津田の文章が戦前と戦後とでどう改訂されたか詳細な調査をしたが、家永自身も将来他の研究者により調査されると感じていた。自身の首尾一貫性を主張するために、(2)の存在を抹殺する必要があったが、結果的に変節を証明したと、佐伯は結んでいる。大倉山論集での批判に、家永はまったく反論していない。
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